石畑村(いしばたむら)の庄屋の家系である稲葉家は養老町石畑の浄誓寺(じょうせいじ)の門徒で、浄誓寺の北に大きな屋敷を構えていた。
明治以降、稲葉家一族は勢至へ移り住み、その後高田へ移り住んだ。稲葉家が石畑から勢至へ移ったのは、勢至谷の水を利用して、製粉業を行う為ではないだろうかと思う。
大垣藩主の戸田氏が稲葉家を訪れていたという記録があり、浄誓寺にも立ち寄られた可能性がある。
2012年現在浄誓寺のご住職のご祖母の話では、稲葉家は大きな屋敷で、戸田氏が馬に乗ったままくぐれる程の大きな門があり、その門を閉める音が、石畑全体に響く程立派であった。
浄誓寺の中庭にある紫雲石の庭石は、稲葉家が石畑から勢至へ移住する際に貰い受けたもので、稲葉家の庭はとても立派だった。
現在も昔と同じ場所に稲葉邸はあり、その前の明徳へ抜ける道の広さも昔と変わっていない。
稲葉家の分家が山幡家で、山幡家の文書が養老町の指定文化財として残っている。

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養老町上方(うわがた)では昭和10年代後半頃までは毎年花火が行われていた。その後規制がかかり、資格を持っていない素人では花火を作れなくなった。
タチイ(漢字不明)という、伝統の花火があった。白鳥神社の銀杏の木の第一の枝の辺りから火の粉をざーっと落とすもので、火の粉が落ちる時間と太さと色の具合を競っていた。練習はお互いに知られないように山など、あちこちで行っていた。
A氏の亡くなったご祖父はタチイの花火作りが得意だった。

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養老町上方(うわがた)に白鳥神社が祀られている。境内には本殿の北の方に御鍬神社と弁天神社、本殿の南側に秋葉神社と神明神社が祀られている。
弁天様は昔、上方の山の上に祀られていたがそこまで登るのは非常に危険で、道に入るのに村の許可が必要であった。
山の頂きに近い所に神明神社があり、そこへ行くには沢田から吉谷林道を登って行かなければならなかった。上方の村から直接神明神社まで歩いて上る仕事用の作業道があったが獣が多く危険だった。

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養老町上方(うわがた)に白鳥神社(上方)の神宿制(かみやどせい)という独特の儀礼が今も残っている。
上方だけにその起源が中世にまで遡る古い儀礼が残ったのは、上方の住民の中に何事も熱心に辛抱強く続ける気風と、長く続いた習慣を変えることが苦手な性質が土壌にあったからだと思う。
神宿制は昔から地主、小作の関係はなく役が回ってきた。
上方には2012年現在42戸あり、順番に神宿を務める。神宿に決まった者は無上の光栄である反面、準備や決まり事が多くあり大変である。若い人には、光栄なことだと思うように言っている。
御宿替えの儀は毎年11月18日に行われる。御宿替えの祝詞をあげた後、手で裂いた小さな長方形の紙に一枚ずつ氏子の氏名を書き、紙をねじってくじを作る。御幣でくじを撫でると、いくつかのくじが御幣にくっついてくるので、御幣を軽く払い、最後に残ったくじの者が次の神宿を勤めることとなる。神宿の選に当ったものは夕刻身を清めてお神酒をあげ、心身を備えて自宅の神棚に報告をする。そして、白鳥神社に羽織・袴で出向いて報告をする。
神移しの儀は11月29日の夜中に行われる。次の神宿の人は夜、風呂に入って清潔にして旧神宿に御印(みしるし)の鰐口を迎えに行かなければならない。
神宿の者は年始に向けて12月の寒い時期に白鳥神社境内の清掃をしなければならない。
年末から正月にかけて家主は部屋に籠り、家族でさえ一切入れなくなる。暖房や食事を作る火は別火(べっか)といい、家族が使うものとは別の独立した火を使う。電気を使って食事を作るのも禁忌とされる。

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養老町上方(うわがた)の白鳥神社についてまとめられた、「白鳥神社史」という冊子がある。
白鳥神社史は養老町の元上方区長の大橋鶴二(おおはしつるじ)氏、編集委員長を務めた高木佳又(たかぎかまた)氏、大橋敬二(おおはしけいじ)氏が発起人となり、高木正義氏、田中安次郎氏ら7人が編集した。
白鳥神社史にぬくとばの畑から出土した須恵器の話が出てくる。ぬくとばとは地元の人が呼んでいた通称ではないかと思われる。大橋鶴二氏の話によれば、氏が20代の頃(昭和20年代半ば)に上方の山の上の方にあるガラガラした石が散乱するぬくとばの畑へ作業をしに行った折に須恵器を見つけた。当時はその須恵器の価値がわからず、大垣市に住んでいた岐阜大学の林周教(はやしかねのり)先生に相談したということである。大橋氏からは畑の中から須恵器だけではなく剣なども一緒に出たという話も聞いたが、詳細が不明なので白鳥神社史には未掲載である。
白鳥神社のご神体である鰐口は写真でさえ見ると目が潰れると言われていたので、白鳥神社史の編纂作業時にはあまり調べていない。
白鳥神社史は60部か70部ほど刷った。

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