養老町室原出身の冨長静丸(とみなが しずまる)氏は、覚民(かくみん)氏の長男である。本名を覚静(かくせい)といった。静丸は号である。子に冨長蝶如(ちょうにょ)氏、孫に冨長覚梁(かくりょう)氏をもつ。漢学の勉強の為、明治22年頃に大分県日田(ひた)へ行き、咸宜園(かんぎえん)という私塾に入門した。咸宜園とは、江戸時代に広瀬淡窓(ひろせたんそう)氏によって設立された、山口県萩の松下村塾と同じような私塾であった。入門した時の名簿には、岐阜県出身、冨長覚民(かくみん)の長男、明治22(1889)年12月12日に入塾の旨が記されている。他の門下生は、主に福岡県、大分県出身で、岐阜県出身者は静丸氏一人だけであり、珍しいことであった。明治時代、覚民氏が長男を大分へ行かせた心意気もさることながら、静丸氏が10代で遠方の大分の咸宜園へ学びに行った事は命がけのことであり、勇気があったと思う。
日田は、以前は九州唯一の材木が集まる所で、文化的にも中心だった。
静丸氏は、漢学者であったが、非常に話が上手であったので、政界へと推薦され、大正から昭和の初めまで不破郡選出の県会議員をしていた。衆議院議員にも立候補したことがあるが落選している。
静丸氏は県会議員をしていたが、その頃の政治家はお金が貯まらず、借金を作っていた。
静丸氏は酒豪であったため、県会議員任期中に脳梗塞を起こした。その時、県議会であと1票で議決するかしないかの投票事案があり、病床で動けない静丸氏は県庁から迎えに来たタクシーで議会に連れて行かれて投票させられた。その結果として事案は無事可決したが、静丸氏の息子の冨長蝶如氏は、タクシーに乗るのも難儀な重病人を投票に連れて行ったことに対する抗議文を新聞に投稿した。その当時の抗議文が残っている。孫の覚梁氏が今考えると、議員としては当然のことであるとも思っている。
静丸氏は昭和5(1930)年に65歳で亡くなった。
孫の覚梁氏の自宅(長願寺)には、静丸氏の雑記帳のような物が色々と残っているものの、軸物は一幅しか残っていない。長願寺の檀家の1人で総代のA氏の家は、静丸氏の描いた達磨の絵など二幅が保管されている。
長願寺に大垣の古物商からも、静丸氏はお宅の関係者か?という問い合わせがよく来る。
静丸氏は、息子の蝶如(ちょうにょ)氏に学を積ませるに当たり、長願寺の住職の跡取りであるので、静丸氏自身のように遠くの大分まで行かせるのではなく、近くの弥富町の服部担風先生の所へ行かせ、自分と同じ漢学を学ばせた。当時は真宗専門学校などの仏教の学校で仏教学を学ぶのが普通であった。
静丸氏が、漢学をやることが大切であるとして、息子蝶如(ちょうにょ)氏に学ばせたことが孫・覚梁(かくりょう)氏の漢詩のルーツにもなっている。
飯田と飯積は、名前は似ているが、領主が異なった。「小畑川の新堤築に関する村取替証文」によると、宝永6年(1709)に水争いで多良の水行奉行、高木五郎左衛門氏が来た時は、飯積は天領、飯田は尾張藩領だった。同証文によれば、小畑川の新堤の高さは飯田側の方は2尺(約61㎝)低く築くよう、対岸の飯積・金屋・宇田村から申し入れがあった。
飯田の立場が弱かったのは、飯積が天領であったのに対して飯田が尾張藩領であったためであるという意見と、飯積輪中の方が飯田側の堤よりも先に築かれていたためであるという意見がある。
昭和年代初めの頃、飯田に消防団があった。青年団や消防団の年齢制限は良く分からないが、中学校を卒業すると誘われて、消防団か青年団のどちらかに入った。専業農家は、両方入らなければならなかったので一番大変な立場であった。A氏は11年間か12年間消防団に入っていた。養老町の消防署が出来てから消防団の人員整理があった。先輩から「一番新しいお前がクビだ」と言われ入団一年目で一度退団式をした。その後、消防団に入団する人がいなくなってしまったので、村に籍のある者は消防団に入ることが義務付けられ、二度目の入団式をした。
A氏が入団するように勧誘に行くと、慌ててその時だけでも籍を移動し、時期を過ぎると籍を戻す人もいた。段々消防団に人がいなくなってしまった。