念長寺の報恩講は今でも30名くらいがお参りする。以前はその年に嫁入りした人が村民に挨拶をする場でもあった。
元々親鸞聖人の命日である12月28日に報恩講を勤めていたが、2010年現在は12月の第1日曜日となった。お斎などは村民によって準備される。橋爪以外に別庄、大垣市上石津町、不破郡垂井町宮代からも門徒が参る。戦前は村の有力者などが総代を務め、戦後は一族の本家筋の当主が総代を務めたが、現在は組の中で相談により決めている。一時期門徒だけで決めていた時があったが、現在は現住職と総代の相談により決定する。
念長寺は天台宗であったが享禄元年(1528)浄土真宗へ改宗した。このころ多くの寺院が天台宗から浄土真宗へ改宗した背景には、徳川幕府がキリシタン弾圧の為に浄土真宗への転宗を迫った以外にも、何か理由があるのではないかと考えている。
念長寺の門徒は長崎の平戸、名古屋、東京と離れた所にもいる。
橋爪と別所全体で100戸ほどあり、そのうち50~60戸が念長寺門徒、後は他門徒だったが江戸時代に浄土真宗が入ってきたため、橋爪の7割方まで浄土真宗門徒が増加した。別庄は氏神の由緒も古く権力を持った村だったが、現在は戸数も少なくなった。元々念長寺の門徒が多かった。昔は念長寺から別所道場御仏供(おぶく)さんを上げたり花をたてたりしていた。
念長寺の本堂の造りは七間四面の入母屋造りとなっており、寄棟造りに比べて高度な建築技術を要する。橋爪の辺りには江戸以前には三間または四間四面の小さな寺が多かった。
念長寺の山門は文化9年(1812)に垂井町の平尾御坊の山門を移築したと伝えられ、十数年前に修繕された。寺の維持費を集める所もあるが、念長寺は基本は普段のお布施でまかなっている。本堂の改修など、大きな法要は総代と相談して費用を割当てるか志にするかが決定される。割当てになれば、比率は総代と相談して金額を決める。総代の親戚筋や分家の人など、門徒の内情をもとに額を決める。
江戸時代以前は吉田村(日吉地区豊)、三神村(多芸西部三神町)、大墳村(多芸西部三神町)、高畑村(多芸西部滝見町)などから念長寺に仏供田(ぶくでん)として寄進された土地があった。また、象鼻山にも寺の所有地があった。
寺の脇に仏供田碑がある。
橋爪のあたりでは多くの寺は東向きに門が建てられているが、念長寺では、門が南側向きに建てられており、珍しい造りである。参道がどこまで伸びていたのかは不明である。橋爪の地盤は固く、濃尾震災でも念長寺の建物は倒壊しなかった。
念長寺の梵鐘は正徳4年(1714)に鋳造された。
念長寺の阿弥陀如来像は古いものであり、本山からの御下賜であるが、年代は不詳である。皇族とも関わりがあったらしく屋根瓦には菊の御紋も施されている。仏像の卓の前に掛けられる打敷きにも丸に違鷹乃羽(ちがいたかのは)の家紋がついており、橋爪の高木家の家紋と同様である。三つ巴の紋の瓦もあり、これは橋爪の吉田家の紋と同じである。聖徳太子の御真影は文化年間(1804~1818)のものである。橋爪では歴代宗祖の御絵像を掛けられるが、橋爪から東ではみられない。これは滋賀県江州(ごうしゅう)の影響である。念長寺には100年以上経つ親鸞聖人の御絵像がある。

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御仏供さん=仏前に供える物、特に米飯。 農地解放では、寺の所有地は8反までとされた。 表示位置は念長寺を示している。