広幡地区の燈明は、2012年現在、口ヶ島の字寺田地内、口ヶ島の元庄屋・田中耕馬氏の新屋前にある。明治初期に今の位置に燈明が移転されたそうである。田中耕馬氏が移転させたという話があるが、実際は耕馬氏のご祖母が行ったそうである。
燈明は、現在地域の人からは「大神宮さん」という愛称で呼ばれているが、昭和10年代は、「燈明さん」と呼ばれていた。その当時の明かりは、ロウソクを使用していた。当番制で順番にロウソクを灯しに行かなければならなかった。明かりを灯す部分の四方がガラス張りになっており、一辺を取り外してマッチで火を点けた。子どもであったA氏にとって、風がある時に燈明に登ってマッチで火を点けるのはとても怖かった覚えがある。
燈明のそばには移転当時に植えられたという杉の木が四本あり、かなりの大木に育っていた。後にそれらの木は切られてしまい、今は梅の木が植えられている。明治初期に燈明を移転したのであれば、A氏が子どもの頃にはまだ杉の木は大木にはなっていないはずなので、移転したと伝えられている年代とは合わないとA氏は考えている。

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大跡との字境に近い口ヶ島(くちがしま)には、旧あほ除の跡である堤防敷(ていぼうしき)といわれる区域があった。

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大跡の東から飯ノ木(はんのき)を通り、養老温泉ゆせんの里(押越1522-1)の辺りにかけて、あほ除(よげ)といわれる堤防があった。あほ除と呼ばれた説は諸説あるが、価値の無い、役に立たないものだったから、そう呼び名がついたとA氏は考えている。飯ノ木、口ヶ島、大跡の三叉路のあたりに旧あほ除の切割(きりわり)のコンクリート跡が残っていた。三叉路から飯ノ木までは小高い除が残っていた。
江戸時代から厳密に等しい高さで築かれていた金草川(かなくさがわ)と津屋川(つやがわ)の堤防に対し、あほ除は若干低めに造られていた。飯ノ木の集落の北側のあほ除は、金草川が増水した場合は土嚢2段分(30cm~40cm位)、つまり金草川津屋川の堤防と同じ位の高さまでなら積み上げても良い、と決められていた。
金草川の堤防は、昔から荷車しか通れない程度の幅の堤防であった。昭和10年代は、その堤防から魚釣りが出来た。
A氏の知る限りでは、あほ除に松の木が植えられていたり、大きな堤防であったという記憶はない。
昭和10年代に金草川が増水したことがあり、その時にあほ除に一番初めに駆けつけたのは、土地の標高が低いとされる下笠(しもがさ)の中島(なかじま)の人であった。ところが昭和34(1959)年の伊勢湾台風の時に、今の大跡の集会所の辺りの方が低い土地であることが分かった。
藤井ハウス産業㈱(押越1974)の所に橋が架かっていて、堤防の下を通って石畑へ行く水路があった。その水路には、金草川からの逆水を防ぐための逆水樋門があった。金草川が増水すると逆水樋門が閉まることになっていたが、A氏の記憶では、動くのかどうか心もとないようなものであった記憶がある。
昭和29(1954)年に広幡(ひろはた)村は養老町に合併した。それまでは消防団の活動は広幡村内だったが、合併以降は基本的に活動範囲が養老町内に広がった。とはいえ、町の治水水防会議でも議会でも広域の水防活動方針が中々決まらなかった。方針が決まらないまま昭和34(1959)年に集中豪雨の水害が起こった。牧田川が増水して危険であった。消防や周辺の村から住民が出動して、牧田川の支流にあたる金草川からの出水を警戒してあほ除に2段の土嚢を積んで耐え凌いでいた。やがてあほ除を越水してしまったが、決壊はしなかった。越えた水は標高の低い土地に流れていった。道路が沈む程度のことは集中豪雨以外の時も何度かあったが、集中豪雨以後ではそれ以上の水位になることはなかった。その後で、万一決壊したらより大きな被害が予想された烏江の牧田川の水防の現場へ広幡の消防団は向かった。
昭和35(1960)年の土地改良によって、あほ除の大部分が無くなった。
広幡地区の東から南に向かって、大跡、鷲巣、釜段のあたりまで、多芸輪中の大堤防に囲まれている。

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西岩道(にしいわみち)の人が口ヶ島(くちがしま)地内に所有している田んぼがたくさんある。広幡地区は東の方が土地が肥えているので、口ヶ島は西岩道に比べると収穫高が少ない。
口ヶ島の元庄屋の田中耕馬(たなか こうま)氏は口ヶ島の土地を多く所有していたが、西岩道の人が口ヶ島の中に所有しているような農地にむかないところは殆ど所有していなかった。田中耕馬氏の土地は戦後の農地解放で全て買い上げられてしまった。
西岩道の有力者が口ヶ島の人の土地を持つことは少なかった。逆に大跡(おおあと)の有力者は、大跡の集落からより近い口ヶ島から、昭和初期に土地を購入した。

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広幡地区の中で、口ヶ島(くちがしま)と大跡(おおあと)は、農地・水・環境事業に入っているので、水路を掃除すると若干の手当がある。その為、大跡は水路を改良したり、補修したりする等の維持管理ができる。口ヶ島地内には、西岩道の人が所有する土地も多く、その土地は手当対象区域から外されてしまう。対象面積が少ない為手当の金額は少ない。
飯ノ木(はんのき)が発足当初の農地・水・環境事業に入らなかった理由は、パソコンが苦手な人が多く書類作成が面倒であったことと、他の集落で農地・水・環境組織に入っている家が5、6軒あり、細部を詰めることが出来なかった為である。飯ノ木は平成20年(2008)になってから農地・水・環境事業に入ったようである。

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