大跡の東から飯ノ木(はんのき)を通り、養老温泉ゆせんの里(押越1522-1)の辺りにかけて、あほ除(よげ)といわれる堤防があった。あほ除と呼ばれた説は諸説あるが、価値の無い、役に立たないものだったから、そう呼び名がついたとA氏は考えている。飯ノ木、口ヶ島、大跡の三叉路のあたりに旧あほ除の切割(きりわり)のコンクリート跡が残っていた。三叉路から飯ノ木までは小高い除が残っていた。
江戸時代から厳密に等しい高さで築かれていた金草川(かなくさがわ)と津屋川(つやがわ)の堤防に対し、あほ除は若干低めに造られていた。飯ノ木の集落の北側のあほ除は、金草川が増水した場合は土嚢2段分(30cm~40cm位)、つまり金草川と津屋川の堤防と同じ位の高さまでなら積み上げても良い、と決められていた。
金草川の堤防は、昔から荷車しか通れない程度の幅の堤防であった。昭和10年代は、その堤防から魚釣りが出来た。
A氏の知る限りでは、あほ除に松の木が植えられていたり、大きな堤防であったという記憶はない。
昭和10年代に金草川が増水したことがあり、その時にあほ除に一番初めに駆けつけたのは、土地の標高が低いとされる下笠(しもがさ)の中島(なかじま)の人であった。ところが昭和34(1959)年の伊勢湾台風の時に、今の大跡の集会所の辺りの方が低い土地であることが分かった。
藤井ハウス産業㈱(押越1974)の所に橋が架かっていて、堤防の下を通って石畑へ行く水路があった。その水路には、金草川からの逆水を防ぐための逆水樋門があった。金草川が増水すると逆水樋門が閉まることになっていたが、A氏の記憶では、動くのかどうか心もとないようなものであった記憶がある。
昭和29(1954)年に広幡(ひろはた)村は養老町に合併した。それまでは消防団の活動は広幡村内だったが、合併以降は基本的に活動範囲が養老町内に広がった。とはいえ、町の治水水防会議でも議会でも広域の水防活動方針が中々決まらなかった。方針が決まらないまま昭和34(1959)年に集中豪雨の水害が起こった。牧田川が増水して危険であった。消防や周辺の村から住民が出動して、牧田川の支流にあたる金草川からの出水を警戒してあほ除に2段の土嚢を積んで耐え凌いでいた。やがてあほ除を越水してしまったが、決壊はしなかった。越えた水は標高の低い土地に流れていった。道路が沈む程度のことは集中豪雨以外の時も何度かあったが、集中豪雨以後ではそれ以上の水位になることはなかった。その後で、万一決壊したらより大きな被害が予想された烏江の牧田川の水防の現場へ広幡の消防団は向かった。
昭和35(1960)年の土地改良によって、あほ除の大部分が無くなった。
広幡地区の東から南に向かって、大跡、鷲巣、釜段のあたりまで、多芸輪中の大堤防に囲まれている。
表示位置は大跡の三叉路のあたりに旧あほ除の切割(きりわり)のコンクリート跡を示している。