養老町全域

大正12年(1923)7月、田中義一氏を代表とする当時の高田青年団が『高田町史』という、高田出身の人物の歴史を書いた本を作った。
田中義一氏は精力的に色々な有志の会を開いていた。その位、高田にゆとりがあったのであろう。昭和の始めの頃にはもうそういった有志の会
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今の高田中学校の南に、忠魂碑と燈明が建っている。これらは、元々は現ミズノテクニクス㈱の敷地内にあった。敷地内には現在も碑が建っていた頃の、こんもりとした跡がみられる。また、昭和21年(1946)頃はこの地に岡本喜十郎の碑も建っていた。
昭和18年(1943)
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戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間
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A氏が子どもの頃、昭和の初め頃は、高田祭の車山(やま)を全部ばらして保管していた。
車山蔵が出来てからは、飾り物だけ外して、本体はそのまま保管した。
常盤(ときわ)町の車山で子ども歌舞伎が上演されていたこともある。戦争が激しくなったら、車山を出さなくなり、
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A氏は、昭和29年(1954)に「ひらけゆく郷土」という本を作った。社会科の副読本として、各学校へ15冊位ずつ配った。当時まだ養老町の図書館はなかったので町の図書館には置いていない。
その時の写真は、自分で撮影に行き、現像もすべて自分でやった。
原板は残っ
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