豊には日比野一族の神様の祠がある。2010年現在、村上明氏の所有地内に社がある為村上明氏が管理している。
村上氏の祖父が京都へ移住した日比野氏から土地と家屋を購入した際、社も一緒に譲り受けた。京都の日比野家とは、現在は連絡を取っていない。年に一度村上家のみで神官を招いて祀っている。
社のいわれは日比野家から養子に出た加藤留吉氏が一度亡くなったが奇跡的にまた息を吹き返した。社はその時に感謝の意を込めて建立したものである。
社の中に木の仏像と棟札が安置されている。

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西勝寺は宇田で開基され移転することなく現在に至っている。西勝寺建立本山許可書が保存されている。天台宗に属していた頃は実相院と称されていた。天台宗から浄土真宗へ改宗したのは観応元年(1350)である。天台宗から浄土真宗への改修は蓮如上人の影響力が大きく、この辺りには蓮如の布教の跡が多く残る。山号を受けた年代は不明である。

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豊の村上一族は、五日市からおそらくは水害により豊に移住してきたという説と、橋爪にいた村上姓が豊村に移ってきたという説がある。日比野一族はもともと豊に住んでいた。
豊の北東の辺りは河間があって1940年代にはホタル取りをした。また。水車小屋があり、その西は牧田川以北一帯の水源地であった。
戦前、日比野シゲミ氏(漢字不明)が親方となって冬の間神楽をやっていた。小遣い稼ぎ程度で安い旅館に泊まりながらあちこちを回った。昭和の始め頃までは豊村ばやしがあったと記憶している。
豊の住民は、五日市の林覚寺(東本願寺)を手次ぎ寺(てつぎでら)にする村上姓15軒と中の応順寺手次ぎ寺にする日比野姓12軒にほぼ二分される。
豊では砂畑という小字があった。豊の北は三反田(さんだんだ)という小字名である。
豊の範囲は北は東光寺あたりまで、東は北野と豊の中間、西・南は現在民家が建っている際までである。
豊は、もと吉田村と呼ばれており、北野の人は現在も豊のことを吉田と呼ぶ。京都にある吉田神社の末社が村内にあることが地名の由緒ではないかと思うとのこと。江戸末期の古文書には吉田村の記載があり明治元年(1868)に吉田村から豊村に名称変更した。また、年代的なことははっきりとしないとする意見、元禄年間(1688~1703)に豊村に変わったのではないかとする意見もあった。
明治17年(1884)10月1日に合併して日吉村となった時には、すでに豊村になっていた。
色目川の南に流れていた川が吉田川と呼ばれていたらしいことから、吉田村の繁栄が伺えるのではないかと思う。吉田川は現存しない。

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町史等に書かれている北野で出土したという遺物は実際は北野よりも南の方で発見されている。北野の集落は移動していない。
北野神社の東側で、職人が来て牛の爪切りをしていた。石仏の昔話が玉泉堂酒造発行「ようろうむかし話」に掲載されている。

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現在、角田の三宅家では蓮沢寺手次ぎ寺とし、了覚寺正覚寺に参る。角田の高木家は了覚寺手次ぎ寺とし、蓮沢寺応順寺に参る。同じ地区で手次ぎ寺が別々になった経緯は不明である。
角田、杉本には三宅代三(みやけ だいぞう)という日吉村長を務めた人がいた。

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