豊の村上一族は、五日市からおそらくは水害により豊に移住してきたという説と、橋爪にいた村上姓が豊村に移ってきたという説がある。日比野一族はもともと豊に住んでいた。
豊の北東の辺りは河間があって1940年代にはホタル取りをした。また。水車小屋があり、その西は牧田川以北一帯の水源地であった。
戦前、日比野シゲミ氏(漢字不明)が親方となって冬の間神楽をやっていた。小遣い稼ぎ程度で安い旅館に泊まりながらあちこちを回った。昭和の始め頃までは豊村ばやしがあったと記憶している。
豊の住民は、五日市の林覚寺(東本願寺)を手次ぎ寺(てつぎでら)にする村上姓15軒と中の応順寺手次ぎ寺にする日比野姓12軒にほぼ二分される。
豊では砂畑という小字があった。豊の北は三反田(さんだんだ)という小字名である。
豊の範囲は北は東光寺あたりまで、東は北野と豊の中間、西・南は現在民家が建っている際までである。
豊は、もと吉田村と呼ばれており、北野の人は現在も豊のことを吉田と呼ぶ。京都にある吉田神社の末社が村内にあることが地名の由緒ではないかと思うとのこと。江戸末期の古文書には吉田村の記載があり明治元年(1868)に吉田村から豊村に名称変更した。また、年代的なことははっきりとしないとする意見、元禄年間(1688~1703)に豊村に変わったのではないかとする意見もあった。
明治17年(1884)10月1日に合併して日吉村となった時には、すでに豊村になっていた。
色目川の南に流れていた川が吉田川と呼ばれていたらしいことから、吉田村の繁栄が伺えるのではないかと思う。吉田川は現存しない。

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表示位置は水車小屋があった所を示している。