北野神社に安置されている石仏は子供のおこりやまいを治すといわれている。その石仏の見つかった河間は現在ある河間よりも道を挟んだ東にあり、周辺の田んぼは沼地のようだったとのこと。河間は耕地整理により西へ移動し、2010年現在は防火用水として利用している。
新宮は、色目新宮・中新宮・橋爪新宮の3つに分かれる。
7月30日に新宮の明治神社の小祭りが行われ、祝詞はないが村中3世代が集まり飲食をする。
新宮の明治神社に太鼓は置いてあるが、今は祭りの時でも出されない。昔は祭りの時には灯篭を作って神社に飾った。
五社神社の総代長を務めたA氏がリーダー的存在となって雅楽を始めた。B氏は篳篥を担当していた。B氏の本業は農家だったが、唯一の楽しみとして雅楽を続けた。2010年現在若い人はあまり参加していない。絵天楽(えてんらく)を田代神社、五社神社、多岐神社、押越八幡神社のほか、主に寺院の御遠忌法要で演奏した。最近では公民館やふなやす(瑞穂506-2、セレモニーホール)、町内各寺院で演奏した。
南宮大社の演奏は宇田の雅楽の会からは参加していない。
篳篥の口部は葦でできているが、今は扱っている店が少なく、現在使用されているものは名古屋の楽器製造会社が作っている。篳篥の露を取る為に夏でも火鉢が必要だった。
宇田の集会場には雅楽に使われる太鼓や笙などが置かれていた。
応順寺は享禄2年(1529)に小倉から移転し、宝暦4年(1754)に火災により御堂が焼失している。ご本尊は無事だった。「高樹山(こうじゅさん)」と山号がついたのは明治初期かそれ以降ではないかと思う。蓮如上人500回忌の折に作成された、由緒、沿革などをまとめた資料がある。 応順寺の本堂には欅製の龍の彫刻が施された欄間、親鸞の木像、先々代の住職直筆の鶴の襖絵がある。また、蓮如上人がムシロの上で書かれたのか藁の網目の跡がついている直筆の書があると伝えられている。 また、平成22年6月現在、近所の地蔵堂が改修中のため、地蔵を本堂で預かっている。 報恩講の際のお華束さん(おけぞくさん)は昔の様式のままに飾っている。 昭和の頃までは御代本を葬儀の際、門徒に貸していた。この御代本は応順寺が小倉にあった頃から使用しているものである。 相焼香(あいじょうこう)は念長寺(橋爪1242)で、どちらかの寺で葬式を執り行う際は片方の寺から住職を呼ぶ。どのような謂われで、念長寺と相焼香を組んでいるかは分からない。 応順寺の門徒は、中・豊・新宮・北野・仁位・宇田・小倉・乙坂(大垣市上石津町)に渡って広く存在する。 養老の掬水が応順寺の門徒であったために、水取場前で撮影した写真が残っている。 浄土真宗で住職を受け継ぐ時には、東本願寺に総代らの承認印を押し、届出をする。門徒総代は3人以上等、宗憲といわれる大谷派の法律で定められている。代表である住職1名、責任役人2名、門徒総代3人以上の登録が必要であり、3年に一度は届出なければならない。御遠忌法要などは、その都度役員が選出される。