橋爪では、友焼きといい村のお世話方の手で亡くなった方を火葬した。
別庄は一箇所に集まって墓地があるが、橋爪は点在している。橋爪村の東に火葬炉があった。
橋爪のA氏の奥様は昭和27年に嫁いできており、その時には現在の養老サービスエリア付近の堤防に車を止め、そこから家まで行列をし、家で婚礼を行った。一斗缶にお煎餅を入れたものを何ケースか用意し、御祝いにくる近所の方に小分けして配った。

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仁位では火葬後のお骨上げのときは喪主が読経するのが通例であったが、悲しみにくれている身内がお経をあげるのは酷だからということで昭和50年後半頃から長老がお経をあげるようになった。

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45年程前には、宇田から大垣に通うのに、大垣の友江まで自転車で送り迎えをしていた。
昭和30年代に宇田でヤギや牛を飼っていた。牛は賢いので子供ではいうことを聞かないこともあった。ヤギは乳を飲んでいたが、肉を食べることもあった。庭で解体作業をした。
結婚の際、新郎から結納を送る時には赤、新婦からの結納返しの時には緑色の装飾を使った。

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江戸末期には村上杏園(むらかみ きょうえん)先生が橋爪の自宅の近くで私塾、博済室(はくさいしつ)を開いていた。
明治6年(1873)、橋爪の念長寺で日吉小学校の前身となる日新義校が開かれた。また同年、同じく日吉小学校の前身となる到遠(ちおん)義校が宇田に開かれた。
明治18年(1885)に日新義校と到遠義校が統合され、謙益学校となった。その後数回の改称を経て、昭和22年(1947)に日吉小学校となり、現在に到る。
養老町豊のA氏が日吉小学校に通っていた昭和20‐30年代(1945‐1955)は、1学級に約50人いた。
正月、二月、天長節、入学式、卒業式に奉安殿に天皇の写真を掲げ、校長の教育勅語の拝読があった。
昭和30‐40年(1955‐1965)頃まで村上杏園先生の墓碑の前で会食を催していた。
昭和初年頃から、農繁期には家族総出で作業をする為、学校が休みになり応順寺では保育園が開かれ、徳願寺西徳寺正覚寺の三寺では一年ごとの持ち回りで保育園が開かれていた。

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養老町の橋爪(はしづめ)の村は象鼻山(ぞうびさん)の南側の現在は牧田川が流れている場所にあったらしい。岡ヶ鼻(おかがはな)という字名であった。橋爪村は慶安3年(1650)の牧田川の水害にあい、より高い土地を求めて現在の字村内 (むらうち)地内に移住してきた。
牧田川からの出水を防ぐため、橋爪と将棋頭(しょうぎがしら)の間に小さい堤防が作ってあり、そこに橋が架けられていた。
いつ頃までか正確には分からないが、橋の詰めにある部落ということで橋詰(はしづめ)と言われていた。徳川時代(1603-1868)頃までの橋爪は、「詰」の字を使っていたがいつのまにか「爪」になった。
現在、橋爪の範囲は牧田川の西の堤防までである。
養老郡志を編纂した大久保休吾氏は別所(べっしょ)が橋爪の本村であると書いていたが、橋爪は様々な土地からの移住者が多いのでその説の真偽のほどは分からない。
木村家はもとは牧田川の南にある高畑村または桜井村に住んでおり、そこから牧田川北の橋爪に移ってきたというのを聞いたことがある。
橋爪は江戸時代(1603~1868)は西組と東組の2つに分けられていた。西組の名主が村上家だった。東組が大久保家の一統である。家系で組を分けていた為、西組と東組の境界が入り交っていたが、明治以降は道で区切って東西南北の組に分けるようになった。
橋爪は慶長5年(1600)に高須城主徳永法印寿昌(とくながほういん ひさまさ)氏の所領となった。
慶長10年(1605)松平越中守定綱(まつだいら えちゅうのかみ さだつな)氏の所領となり、徳川幕府領となった。
その後、寛永12年(1635)に戸田家の当主、戸田氏鉄(とだ うじてつ)氏が大垣に移封されてから大垣藩の所領となって以降、明治維新までの230年余り、大垣藩が橋爪村を治めた。
明治4年(1871)廃藩置県があり、大垣県となり、翌年には岐阜県となって戸長及び副戸長が置かれた。
橋爪村の中心には高札場があったという話が伝わっているが、場所は不明である。
戦後の農地解放の前、橋爪の土地を持っていた住民は自分の土地を少しでも広げるために田んぼの畔などを少しづつずらすなどしていた。
昭和年代までは、橋爪区の区長が代わると、大きな木箱に過去の資料を入れて順番に回していたが、2010年現在は橋爪の篠塚神社の社務所に保管されている。
橋爪には士分を持つ者は7名ほどしかいなかった。

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