江戸末期には村上杏園(むらかみ きょうえん)先生が橋爪の自宅の近くで私塾、博済室(はくさいしつ)を開いていた。
明治6年(1873)、橋爪の念長寺で日吉小学校の前身となる日新義校が開かれた。また同年、同じく日吉小学校の前身となる到遠(ちおん)義校が宇田に開かれた。
明治18年(1885)に日新義校と到遠義校が統合され、謙益学校となった。その後数回の改称を経て、昭和22年(1947)に日吉小学校となり、現在に到る。
養老町豊のA氏が日吉小学校に通っていた昭和20‐30年代(1945‐1955)は、1学級に約50人いた。
正月、二月、天長節、入学式、卒業式に奉安殿に天皇の写真を掲げ、校長の教育勅語の拝読があった。
昭和30‐40年(1955‐1965)頃まで村上杏園先生の墓碑の前で会食を催していた。
昭和初年頃から、農繁期には家族総出で作業をする為、学校が休みになり応順寺では保育園が開かれ、徳願寺西徳寺正覚寺の三寺では一年ごとの持ち回りで保育園が開かれていた。

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天長節=第二次大戦まで、今上天皇の誕生日のことを天長節と呼んだ。 表示位置は到遠義校跡を示している。