養老町の橋爪(はしづめ)の村は象鼻山(ぞうびさん)の南側の現在は牧田川が流れている場所にあったらしい。岡ヶ鼻(おかがはな)という字名であった。橋爪村は慶安3年(1650)の牧田川の水害にあい、より高い土地を求めて現在の字村内 (むらうち)地内に移住してきた。
牧田川からの出水を防ぐため、橋爪と将棋頭(しょうぎがしら)の間に小さい堤防が作ってあり、そこに橋が架けられていた。
いつ頃までか正確には分からないが、橋の詰めにある部落ということで橋詰(はしづめ)と言われていた。徳川時代(1603-1868)頃までの橋爪は、「詰」の字を使っていたがいつのまにか「爪」になった。
現在、橋爪の範囲は牧田川の西の堤防までである。
養老郡志を編纂した大久保休吾氏は別所(べっしょ)が橋爪の本村であると書いていたが、橋爪は様々な土地からの移住者が多いのでその説の真偽のほどは分からない。
木村家はもとは牧田川の南にある高畑村または桜井村に住んでおり、そこから牧田川北の橋爪に移ってきたというのを聞いたことがある。
橋爪は江戸時代(1603~1868)は西組と東組の2つに分けられていた。西組の名主が村上家だった。東組が大久保家の一統である。家系で組を分けていた為、西組と東組の境界が入り交っていたが、明治以降は道で区切って東西南北の組に分けるようになった。
橋爪は慶長5年(1600)に高須城主徳永法印寿昌(とくながほういん ひさまさ)氏の所領となった。
慶長10年(1605)松平越中守定綱(まつだいら えちゅうのかみ さだつな)氏の所領となり、徳川幕府領となった。
その後、寛永12年(1635)に戸田家の当主、戸田氏鉄(とだ うじてつ)氏が大垣に移封されてから大垣藩の所領となって以降、明治維新までの230年余り、大垣藩が橋爪村を治めた。
明治4年(1871)廃藩置県があり、大垣県となり、翌年には岐阜県となって戸長及び副戸長が置かれた。
橋爪村の中心には高札場があったという話が伝わっているが、場所は不明である。
戦後の農地解放の前、橋爪の土地を持っていた住民は自分の土地を少しでも広げるために田んぼの畔などを少しづつずらすなどしていた。
昭和年代までは、橋爪区の区長が代わると、大きな木箱に過去の資料を入れて順番に回していたが、2010年現在は橋爪の篠塚神社の社務所に保管されている。
橋爪には士分を持つ者は7名ほどしかいなかった。
その後木箱の資料は橋爪の集会所にあることが判明した。
表示位置は篠塚神社の社務所を示している。