ヒビ(株)工場(直江613-1)の脇を流れる立出(たてだし)川は湧水が流れる川なので、水質がとてもきれいである。
大坪は基本的に兼業農家で、舟運など水辺に関する仕事や、養蚕業を行っている人がいた。造り酒屋もあった。自作農と小作農は半々だった。米が不作の年には4等米しか取れない家があり、そのような家では粟や稗を食べて暮らしていた。米が中心であったが小麦や菜種も栽培していた。

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昭和20年頃、米軍の飛行機から錫の紙吹雪のようなものが撒かれ、ラジオの電波を妨害した上で照明弾を落として焼夷弾を落としていた。
飯田の八幡神社に爆弾が落ちたことがある。
大垣にでるのが便利になり、持家が増えた昭和30年から40年代にかけて、田んぼを売って家を建て替える人も多かった。
昭和22・3年頃ヤミ米を1俵6000円、一升150円で売っていた。一日働いて100円もらえる時代だった。

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2010年現在江月で耕作している土地は約50町歩である。
上江月は漁師か船頭をやっていた人が多く、上江月だけで漁師は5、6軒あった。明治中期頃には宿泊施設として船宿があった。川の真ん中に網棚と呼ばれる櫓(やぐら)を作って魚取りをしていた。昭和20年代には鰻の漁獲量が一晩一網で、7~8万円になったこともあると聞いたことがある。

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明治中頃は小畑に小学校はなく、大坪の子どもは日吉小学校に通っていた。昭和18年(1943)に入学した時の小畑国民小学校は1クラス47名で、1学年1クラスしかなかった。その次の年の入学生は23名だった。校舎は建てかえられているものの、場所は変わっていない。
小畑尋常高等小学校が小畑国民小学校になったのは、昭和16年4月からである。
昭和29年の町村合併の時に改称され、養老町立小畑小学校となった。
小畑小学校の運動会の写真がある。昔の運動会では、必ず白虎隊があった。昔は素人ではこの程度の写真しか撮れなかった。戦後何もない時のカメラで撮った記念写真である。

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戦後、飯田から通う主な高校には希望する進路により、進学校の大垣北高等学校、実業校では大垣農業高等学校(現、大垣養老高等学校)、大垣工業高校、大垣商業高校があった。
学校の先生の給与は村の財政によって異なっており、飯田が一番安かったといわれている。
相順寺(そうじゅんじ)が寺小屋であったかははっきりとしないが、戦後(昭和30年代)にラジオ体操が終わった後に、本堂でお経とともに勉強を教えてもらうことがあった。
大橋治太郎(じたろう)氏が薬師院で寺小屋をしていた。江戸末期のことである。

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