西岩道で、西脇文夫氏の家は伊勢講の事務をご祖父の時代の明治期から100年に渡って務めた。
伊勢講の始まりは慶応3年である。
西脇鉄次氏が田を1反半ほど寄付し、取れる米の売上げを伊勢講に充てた。西岩道の氏神は八幡神社である。昔は1月8日に伊勢講に出発して14日に帰ってきて左義長を行った。
烏江か船附から舟で桑名まで行き、関西線で伊勢まで行った。
後に農地解放で1反半の半分が小作に分けられた。その為に費用の不足分として1000円~2000円位を各戸より撤収して伊勢講は続けられた。現在でも伊勢講は続いている。
秋葉講もしていたが、今は途絶えている。お金を静岡県の秋葉さんに送り、お札をもらって希望者に渡している。
京講もあり京都の東本願寺にお参りしている。京講は現在も続いている。
養老町池辺の大巻には小坪排水機場がある。未調査のため、詳細は不明である。
世に宝暦の治水と呼ばれた薩摩藩による「濃州、勢州、尾州、川々御手伝御普請」は、宝暦4年(1754)から5年(1755)にかけて一ヶ年余りの歳月をかけて947人という薩摩藩士と総工費約40万両という巨費を投じて完成した。
2010年現在32代目の島津家当主も毎年天照寺にお参りされる。治水神社の春と秋の慰霊祭にも、鹿児島からバス2台で来訪する。
当初、薩摩義士の自決に関しては副代官伊集院氏により「腰のもので怪我をした」と発表されていたが、それは切腹が公になったらその家だけではなく藩の責任となるので、それを避けるためである。
真実を調べ始めたのは大巻高柳の出身の山田貞策(やまだ ていさく)氏が最初である。
お寺も当時係わり合いを嫌がって葬式を出そうとしなかったが、天照寺を始め桑名市海蔵寺(かいぞうじ)、京都市大黒寺(だいこくじ)他いくつかの寺が引き受けた。
天照寺では薩摩義士27名の葬式を出し、3基の墓がある。他の24名の墓は根古地の浄土三昧にあり、これらは天照寺の過去帳にも記録を載せている。
当時の天照寺住職が、住民に「自分たちのために働いてくれているのだから」と諭すと、幕府に逆らうことになるため公に支援する訳にはいかなかったので、夜中の内に住民がネギや大根などの志を薩摩義士のために置いていった。
薩摩義士947人を一の手~四の手まで分け、出張り小屋を割り当てた。その扱いは幕府からのお達しにより、食事は一汁一菜にし、物を高く売り付け、宿泊の場は一切の手入れ無用とするなど、ひどいものだった。そういった中で池辺出身の鬼頭兵内氏は幕府の意向に逆らい、平田氏に貸す館の手入れをしたことで幕府に連行された。釈放され戻ってからも何者かに屋敷に火をつけられるなどのいやがらせをされたが、屋敷は再建した。
NHKの大河ドラマにならないかという地元の池辺地域の希望もあったが、当時は篤姫が決定していたので実現しなかった。代わりに「その時歴史は動いた」で取り上げられた。
作家杉本苑子も「孤愁の岸」で宝暦の治水を取り上げている。
大巻にも宝暦治水の時の養老町内の工事箇所はあるはずだが、具体的にどこかというのが不明である。
島田でも牧田川堤防の一部で薩摩義士による宝暦治水工事が行われた跡があると言われている。
「平田靭負(ひらたゆきえ)は鹿児島では莫大な費用を持ち出しているので誰も良く思っていない」と聞いたことがある。
大巻は養老町よりも、海津市南濃町や安八郡側に生活圏があった。
南濃町早瀬の桜堤防は大巻の小学生の遠足場所であったが、今は桜堤防の桜の木は道路拡幅の為に伐採されてしまってほとんど残っていない。
津屋川は昔は、水がとてもきれいで子供達がよく泳いだ。水遊びだけでなく、牛を川で洗い、魚を獲って食べた。
骨酒と言って鯉の頭を焼いて、熱い酒をかけるとダシが出て酒が甘くなるので、それをみんなで回し飲みをした。
昔は津屋川の堤防の上に住宅が並んでいた。
大巻では年に一度、ポンポン船で桑名まで出て潮干狩りをした。
大巻では、小麦粉を練った生地で餡を包んでみょうがの葉を巻いて蒸す、みょうがぼちと言われる「野上がり団子」が名物である。
大巻には水害時に仏壇を滑車で2階へ上げられ、下台(しただい)の高い名古屋仏壇と言われる吊仏壇の家が多い。
昔は蓮根田を各家庭で持っていて、生ごみは肥料としてそこに捨てた。大巻では今でも蓮根を作っている。他には小麦や菜種を作っていたが、他人の田に入って行かねばならない奥の方では米以外のものを合間に作る余裕は無かった。
大巻には昭和の初め頃、津屋川の排水機のそばに岐阜から長良川の鵜飼船1艘が来ていた。鵜の冬期間の餌を確保する為である。
昔、大巻の小坪排水機場の西側は池で、昔の排水機は池の水をかい出すためのものだった。
大巻には日本で2番目に古い排水機場の小坪排水機場があり、そこには赤レンガの門があったが土地改良時に撤去された。
小坪排水機場建設の際には近所から女性も働きに行き、タコという地突きの道具などの機材を用いて基礎を作った。
小坪のあたりの水は鉄分が多く、蛍を育てる際も水替えなどが大変だった。この地域は地下は鉄分を多く含むそぶ水で赤く濁っている。
小坪青少年集会所の広場の土地が少し高くなっているため、近年でも水が出そうなときは近隣住民は車を預けに来る。
大巻では春と秋の年二回、豊作祈願と収穫後のお礼のために住民ほぼ全員が多度神社にお参りに行く。