安八郡大牧村(現養老町大巻)の庄屋を務めていた鬼頭兵内(きとう へいない)は、尾張国(現愛知県名古屋市)に住んでいた鬼頭家の21代目当主鬼頭兵内景義(きとうへいない かげよし)が17世紀半ばに大牧村に移りすんできたのが初代である。(「鬼頭家の歴史」参照)
兵内は景義の後代々襲名されており、大牧の鬼頭家3代目の当主を鬼頭兵内義雄(きとうへいない よしお)、号名は呂圭(ろけい)という。義雄が当主を務めていた時代に薩摩藩による宝暦治水工事(1754)が行われた。当時の大牧村は多良の高木家が水行奉行を務めていた。高木氏の依頼により鬼頭家は敷地の一部、299畳分を薩摩藩の工事の為に提供した。大巻の智通寺の過去帳によると寛保元年(1740)頃、鬼頭家の屋敷は3反8畝(約3,762㎡)であった。
以後幕府より、これ以上のものを貸してはならないという命令があったが、兵内はその圧力には従わず、多くの棟を提供し、薩摩義士を丁重に扱ったといわれている。兵内は治水工事で家が潰れてしまってもよいと考えていたふしがあり、幕府の金をあてにせず自腹を切ってでもやり遂げようとしていたと思う。
治水工事終了後、幕府より受けた恩賞は以下の3点である。
1.金子50両
1.太平布3疋
1.毛氈2枚
義雄は寛政11年(1799)に91歳で尾張国の中島新田(現愛知県一宮市中南部と稲沢市)にて死去した。
鬼頭兵内の資料については、名古屋市東区の蓬左文庫に預けられたと聞いている。

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宝暦4年(1754)に宝暦治水工事の本小屋に本宅を開放した兵内氏は三代目の時であった。 幕府の圧力にもめげず鬼頭兵内は喜んで協力した。寛政11年(1799)に91歳で死亡した。 表示位置は鬼頭兵内の代々の墓所を示している。