世に宝暦の治水と呼ばれた薩摩藩による「濃州、勢州、尾州、川々御手伝御普請」は、宝暦4年(1754)から5年(1755)にかけて一ヶ年余りの歳月をかけて947人という薩摩藩士と総工費約40万両という巨費を投じて完成した。
2010年現在32代目の島津家当主も毎年天照寺にお参りされる。治水神社の春と秋の慰霊祭にも、鹿児島からバス2台で来訪する。
当初、薩摩義士の自決に関しては副代官伊集院氏により「腰のもので怪我をした」と発表されていたが、それは切腹が公になったらその家だけではなく藩の責任となるので、それを避けるためである。
真実を調べ始めたのは大巻高柳の出身の山田貞策(やまだ ていさく)氏が最初である。
お寺も当時係わり合いを嫌がって葬式を出そうとしなかったが、天照寺を始め桑名市海蔵寺(かいぞうじ)、京都市大黒寺(だいこくじ)他いくつかの寺が引き受けた。
天照寺では薩摩義士27名の葬式を出し、3基の墓がある。他の24名の墓は根古地の浄土三昧にあり、これらは天照寺の過去帳にも記録を載せている。
当時の天照寺住職が、住民に「自分たちのために働いてくれているのだから」と諭すと、幕府に逆らうことになるため公に支援する訳にはいかなかったので、夜中の内に住民がネギや大根などの志を薩摩義士のために置いていった。
薩摩義士947人を一の手~四の手まで分け、出張り小屋を割り当てた。その扱いは幕府からのお達しにより、食事は一汁一菜にし、物を高く売り付け、宿泊の場は一切の手入れ無用とするなど、ひどいものだった。そういった中で池辺出身の鬼頭兵内氏は幕府の意向に逆らい、平田氏に貸す館の手入れをしたことで幕府に連行された。釈放され戻ってからも何者かに屋敷に火をつけられるなどのいやがらせをされたが、屋敷は再建した。
NHKの大河ドラマにならないかという地元の池辺地域の希望もあったが、当時は篤姫が決定していたので実現しなかった。代わりに「その時歴史は動いた」で取り上げられた。
作家杉本苑子も「孤愁の岸」で宝暦の治水を取り上げている。
大巻にも宝暦治水の時の養老町内の工事箇所はあるはずだが、具体的にどこかというのが不明である。
島田でも牧田川堤防の一部で薩摩義士による宝暦治水工事が行われた跡があると言われている。
「平田靭負(ひらたゆきえ)は鹿児島では莫大な費用を持ち出しているので誰も良く思っていない」と聞いたことがある。

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表示位置は大巻薩摩工事役館跡を示している。