一色で、戦争中は灯火管制で布をかぶせてカンテラを使っていた。村で、戦時にラジオを持っていたのはお金持ちの家くらいだった。玉音放送を聞いて、下多度村(海津市南濃町)の婦人会長さんが「日本は神国なのに負けてしまった」と泣いていたのを記憶している。
大東亜戦争と支那事変では当時の一色の住民の内、12人が戦死している。
A氏の父親は公報によればフィリピン、レテ島で戦死と言われているが、実際のところは不明である。
一色の遺族会は今も行っている。
A氏は、9月10日の養老町の慰霊祭にも毎年出席する。また 大垣の護国神社にも春秋2回行っている。
B氏は戦後しばらくの間ヤミ米運びをしていて、養老の米を彦根や京都に持って行くと、約2倍の値がついた。しかし、車内では鉄道警察の取り締まりが行われていたため、見つかってしまう前に窓から線路に投げ捨てたこともある。

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永正元年(1504)に栗田勘四郎源光実が滋賀県江州から移ってきて、有尾を開拓した。
栗田勘四郎源光実氏は、四男であったため有尾に出されたのではないかと考えている。平成22年(2010)の当主は13代目で、八幡神社の隣に居を構えている。下池開拓に力を注ぎ、下池東部・西部のほぼ全域の土地を持っていた。十三ヶ村排水路に沿って津島街道が通っているが、この辺りはもとは栗田氏の土地であったことから、現在も下池辺りまで細長く有尾の地番になっている。平成27年(2015)より14代目に移行した。

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鬼面山谷五郎(きめんざんたにごろう)は養老町鷲巣の出身で、岐阜県で唯一横綱になった人物である。
谷五郎は子供の頃から養老寺で作男として働く父親を手伝っていた。
後に谷五郎は滋賀県彦根の石屋へ奉公に行った。
鷲巣では鬼面山の周知に力を入れていた。鬼面山を顕彰する小冊子がある。

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横屋のA家は高須の禅寺が男門徒、有尾の明楽寺が女門徒となっていた。女性が亡くなった場合は明楽寺で法要を執り行われたが、現在は男女関係なく禅寺の方で法要を執り行う。
B氏は下多度の小学校を卒業後すぐ工場に行って働き始めた。14,5歳の時に予科練に志願、岐阜の公会堂まで試験を受けに行き、乙種合格をした。
戦後は百姓になり、自然薯を掘ったりしていたが、やがて大工になり、多度、桑名、津島、甚目寺などに行った。当時大工の需要は多かった。

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昭和34年の伊勢湾台風と集中豪雨では、直江谷(大字白石字小谷山)が荒れた為、その下流の水田が被害を受けた。鷲巣の水田の稲は2度水が浸いた為にほぼ全滅した。残った稲を刈り取ったが腐ってしまっており、町から配給を受けて1年間凌いだ。

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