一色で、戦争中は灯火管制で布をかぶせてカンテラを使っていた。村で、戦時にラジオを持っていたのはお金持ちの家くらいだった。玉音放送を聞いて、下多度村(海津市南濃町)の婦人会長さんが「日本は神国なのに負けてしまった」と泣いていたのを記憶している。
大東亜戦争と支那事変では当時の一色の住民の内、12人が戦死している。
A氏の父親は公報によればフィリピン、レテ島で戦死と言われているが、実際のところは不明である。
一色の遺族会は今も行っている。
A氏は、9月10日の養老町の慰霊祭にも毎年出席する。また 大垣の護国神社にも春秋2回行っている。
B氏は戦後しばらくの間ヤミ米運びをしていて、養老の米を彦根や京都に持って行くと、約2倍の値がついた。しかし、車内では鉄道警察の取り締まりが行われていたため、見つかってしまう前に窓から線路に投げ捨てたこともある。

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大垣の護国神社は廓町にある。西濃一帯の戦没者の慰霊の為の神社である。 表示位置は一色を示している。