飯積の馬頭観音はいつから祀られているのか不明である。

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御井(みい)神社は養老町に3社ある式内社の内の1社である。
今までに2回移動しており、元々は早崎石油(金屋427)の西にあった。2010年現在は石碑が建っている。そこから、昭和10年代に金屋集会所に移り、やがて名神の工事に伴い現在地の金屋の春日神社の脇に移動した。
象鼻山が爆撃された時には田植えをしていたが、皆、御井神社の縁の下にもぐりこんで避難した。

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養老町南直江に西光寺跡がある。また、揖斐川町の谷汲山華厳寺(たにくみさん けごんじ)境内に西光寺の祠が残っているらしい。現在、西光寺は廃寺となっており、門徒はいない。
西光寺には、浅野恵明(あさの えめい)という説教の名手がいた。
垂井の金蓮寺(こんれんじ)に西光寺の資料があるのではないかとのこと。また、西光寺の鐘も垂井の金蓮寺に移された。
西光寺さんには涅槃の掛軸があった。今は、直江の蓮光寺(れんこうじ)で管理している。
関ヶ原の戦いの後に西光寺さんはだんだんちいさくなっていったらしい。
小字経堂のあたりにAさんという住職とは別に西光寺さんの管理をされている方がいたが、平成14年くらいに火事でご夫婦とも亡くなってしまった。もともと西光寺さんに住んでいらっしゃった方で、西光寺さんの場所が移った後も週1回くらいの頻度で、燈明をあげたり管理をしに来られていた。西光寺さんの住職は外を飛び回っていた方で、住職が直江に戻ってこられてから、Aさんは小字経堂のところの家にもどられた。住職が亡くなり、その奥さんも亡くなったあとは、20年ほど無人のお寺だった。

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玉泉寺には古い地蔵や落武者の墓がある。前住職は揖斐川町の谷汲山華厳寺で管長をしていた。玉泉寺は寛政6年(1465)創建の西徳寺より100年程前に開基されている。関ヶ原合戦の東軍についた徳永寿昌(とくなが よしまさ)・市橋長勝(いちはし ながかつ)・横井時泰(よこい ときやす)等と西軍についた毛利秀元(もうり ひでもと)・長曽我部盛親(ちょうそかべ もりちか)・長束正家(ながつか まさいえ)等が戦った、金屋川原の合戦にまつわる五輪の塔は現在、玉泉寺の墓地の真ん中にある。
玉泉寺では「金屋川原の合戦」の供養が毎年8月24日に行われている。
玉泉院正覚寺とも戦時中の鉄の供出で鐘を出してしまっており、現在あるのは戦後に寄付により買ったものである。

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金屋の区長が金屋の春日神社の氏子総代を務めることになっており、任期は2年である。総代が1名、会計が1名で祭事を執り行っている。現在は村の神社として祭祀をしているが、以前は、金屋の春日神社は西金屋だけで祭祀を行っていた。
金屋の春日神社の由緒については、はっきりとしない。奈良の春日大社と直江の春日神社との何らかの関係性もあるのだろうが、明確ではない。金屋の春日神社の西側に石碑やお墓などがあったが、全てを玉泉寺(金屋54‐1)に移動した。金屋の春日神社の隣に御井神社が遷座してきたのは、単に春日神社の西側の土地が空いていたためである。
金屋の春日神社に植わる椋(むく)の木を切ると怪我をしたり、切り口から赤い汁が出る、という言い伝えがあって、道に張り出してきた枝を金屋の人はもとより、養老町としても切ろうとしなかった。椋の木を重機でひっかけて折ってしまったため切らざるを得なくなり、結局、建設省がお祓いをして切ったら、根元にはいつの時期か分からない合戦時の多くの遺骨が埋まっていた。作業の前後には玉泉院で弔いをした。

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