養老町南直江に西光寺跡がある。また、揖斐川町の谷汲山華厳寺(たにくみさん けごんじ)境内に西光寺の祠が残っているらしい。現在、西光寺は廃寺となっており、門徒はいない。
西光寺には、浅野恵明(あさの えめい)という説教の名手がいた。
垂井の金蓮寺(こんれんじ)に西光寺の資料があるのではないかとのこと。また、西光寺の鐘も垂井の金蓮寺に移された。
西光寺さんには涅槃の掛軸があった。今は、直江の蓮光寺(れんこうじ)で管理している。
関ヶ原の戦いの後に西光寺さんはだんだんちいさくなっていったらしい。
小字経堂のあたりにAさんという住職とは別に西光寺さんの管理をされている方がいたが、平成14年くらいに火事でご夫婦とも亡くなってしまった。もともと西光寺さんに住んでいらっしゃった方で、西光寺さんの場所が移った後も週1回くらいの頻度で、燈明をあげたり管理をしに来られていた。西光寺さんの住職は外を飛び回っていた方で、住職が直江に戻ってこられてから、Aさんは小字経堂のところの家にもどられた。住職が亡くなり、その奥さんも亡くなったあとは、20年ほど無人のお寺だった。
玉泉寺には古い地蔵や落武者の墓がある。前住職は揖斐川町の谷汲山華厳寺で管長をしていた。玉泉寺は寛政6年(1465)創建の西徳寺より100年程前に開基されている。関ヶ原合戦の東軍についた徳永寿昌(とくなが よしまさ)・市橋長勝(いちはし ながかつ)・横井時泰(よこい ときやす)等と西軍についた毛利秀元(もうり ひでもと)・長曽我部盛親(ちょうそかべ もりちか)・長束正家(ながつか まさいえ)等が戦った、金屋川原の合戦にまつわる五輪の塔は現在、玉泉寺の墓地の真ん中にある。
玉泉寺では「金屋川原の合戦」の供養が毎年8月24日に行われている。
玉泉院、正覚寺とも戦時中の鉄の供出で鐘を出してしまっており、現在あるのは戦後に寄付により買ったものである。
金屋の区長が金屋の春日神社の氏子総代を務めることになっており、任期は2年である。総代が1名、会計が1名で祭事を執り行っている。現在は村の神社として祭祀をしているが、以前は、金屋の春日神社は西金屋だけで祭祀を行っていた。
金屋の春日神社の由緒については、はっきりとしない。奈良の春日大社と直江の春日神社との何らかの関係性もあるのだろうが、明確ではない。金屋の春日神社の西側に石碑やお墓などがあったが、全てを玉泉寺(金屋54‐1)に移動した。金屋の春日神社の隣に御井神社が遷座してきたのは、単に春日神社の西側の土地が空いていたためである。
金屋の春日神社に植わる椋(むく)の木を切ると怪我をしたり、切り口から赤い汁が出る、という言い伝えがあって、道に張り出してきた枝を金屋の人はもとより、養老町としても切ろうとしなかった。椋の木を重機でひっかけて折ってしまったため切らざるを得なくなり、結局、建設省がお祓いをして切ったら、根元にはいつの時期か分からない合戦時の多くの遺骨が埋まっていた。作業の前後には玉泉院で弔いをした。
若宮では、昭和の中頃までは大竹の節を抜いてパイプを作り、若宮の八幡神社の辺りから水を引いていた。水が涸れたことは一度も無い。同じ水路を周囲の4~5軒が利用していた。また、八幡神社の近くの大きな池を溜池にして、防火用水として使っていた。昔は子供がそこで泳いでいた。
若宮には平成20年までグリーンハイツ養老という、温泉施設つきの国民健康保険センターがあった。
若宮は現在28軒くらいあり、組は10軒が2組と8軒1組、合計3組に分かれている。戸数は昔からあまり変わっていない。
A氏のお宅の屋根の上に鍾馗像があり、本屋から小屋の方に向かって見守るように建てられている。若宮の辺りで鍾馗像はあまり見かけないが、A氏が建築の仕事に関わっていたことからこういったことに詳しかったので鍾馗像を建てた。