桜井の共同基地の奥に桜井の庄屋の家系、渋谷家代々の墓があり、その墓標の中には「渋谷家元祖の墓」と書かれた寛平元年(889)の年号が入ったものがある。渋谷家の墓のある向かいあたりが火葬場のあった場所で、お墓から山中に向かって段々の桑畑があった。
桜井は上方の一部だったが、桜の香りがするという泉が湧いてから桜井という地名がつけられた。桜井と上方併せて、70軒程の戸数があった。白鳥神社も昔はひとつだったが、今は桜井にも白鳥神社がある。上方の人曰く、上方の白鳥神社が本元で格が上であるらしい。
西濃用水の水は明徳にも流れているが、明徳は石畑に比べると村の領域が狭く、水の分配量も明徳分が少ないため、明徳の田んぼに水を流してもらう為に石畑に対して肩身の狭い思いをしていた。また、桶で水をくみ上げて水を流していたこともある。
西濃用水は、上方を通り、石畑へ水を送っている。
石畑の西濃用水は、上方を通り石畑まで幹線水路で水を送っている。
江戸時代末期(1800年頃)までは牧田川右岸の堤防が低いために度々の出水で決壊し、沢田、桜井、上方から竜泉寺までの村々が水害に悩まされた。反面、干ばつ期には用水の獲得にも苦労したが、西濃用水が完成してからは用水問題は解決された。
柏尾谷隧道は、大正年間に造られたものではないかと考えている。
天保年間(1830~1844)に滝谷が崩壊した為、谷の水源が汚濁して苦労した。
この滝谷の土砂崩れでは、喫茶店ジン(現在は閉店している。養老公園1274、養老亭の辺り)の近くが崩壊した。2010年現在も土砂止めが残っている。また、その辺りに梁川星巌の碑が埋もれたままになっているといわれている。
滝谷と菊水泉を一括にした、幅1間(約1,8m)、深さ3尺(約91cm)の水路を、滝谷から北へ550間(約1km)引いたため、高林から北へ集落が大きくなっていった。
昭和12、13(1937、1938)年の豪雨の時に滝谷が上流の方で決壊した。
鷲巣(わしのす)の字絵図を見ると元河原という字があるが、滝谷が決壊した位置と一致するかどうかは、分からない。元河原からずっと東へ下がって飯ノ木の津屋川へ滝谷が落ちている源氏橋のあたりで、飯ノ木と鷲巣で滝谷の落ち口をどちらへ持って行くかでいざこざがあった。鷲巣は北へ向けたかったが、結局鷲巣が負けたため滝谷の落ち口は南を向いているのではないだろうかと思う。
星巌の石碑の下にあった滝川惟一(たきがわゆういち)の石碑は、崖崩れの度に何度も谷に落ちた為、滝谷の右岸、万代橋ともみじ橋の間の現在の場所に移動させたといわれている。