桜井では養老山に風穴がありそこを通って神社の湧水が湧き出ていると伝えられているが、風穴の場所ははっきりとしない。白鳥神社の入り口にある池は、大雨が降ろうと渇水になろうと水位が変わることがない。山手では鹿が作物の新芽を食べてしまう等の被害がある。

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竜泉寺の天然記念物の椋(むく)の木の樹齢は700~800年程ではないかと思う。車が両脇を通るせいか、だんだんと枯れてきている。西脇孝雄氏が区長になられてから、枯れ枝を払うため、枝下ろしを3回ほど行っている。幹の内部は、おそらく空洞になっているのではないかと思う。

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昭和7,8年頃に沢田の子供達は牧田川へ泳ぎに行った。一之瀬の堰堤の前が2-3mと深かったのでそこで上級生と泳いで泳ぎを覚えた。鮎・ウグイ・シラハエ・アカンバ(ババ)、石のそばにはイシンコロという小さな魚がいて、たくさん取った。堰堤を作ってからは魚がどんどん少なくなった。

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柏尾地区は、一村一神社一箇寺であり、神明神社と存徳寺を擁する。団結力があり、協力体制が整いやすい。全体の戸数は旧柏尾村では31軒が昔から住んでおり、南の方に旧柏尾村からの新家で3軒ほど、白鶴荘あたりを新開地と呼び17~18軒ほどで構成されている。新開地の方は、存徳寺門徒でない家が多いのではないかと思う。
柏尾地区には4班あり、構成は存徳寺から東へ下る道を挟んで南北に二分し、更に東西に二分する。総代長は家の並び順で1年毎に交代される。総代長の両隣りの2軒が総代を務める。
存徳寺の西方に柏尾城があった。城主や築年代などは不明である。

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寛保年間(1830~1844)まで島田村滝谷山を所有していたが、度重なる洪水により山の維持が困難になり、白石村に山の権利を譲渡した。それまで白石の集落は高林にあり、養老寺養老神社を祀って生活してきた。理由は不明だが、明応年間(1492~1501)に現在の白石の集落である字村上と京ヶ脇に別れることになった。京ヶ脇と白石に田中姓があるが、元は高林の一族ではなかったかといわれている。
白石住民の半数ほどの手次ぎ寺は大垣市上石津町打上の専想寺(せんそうじ)である。白石の住民たちは、上石津町打上から養老に居着き、藤塚姓や三輪姓を名乗り、三輪姓から分家して鈴木姓を名乗るようになった。専想寺に過去帳や証文などが残っている。昔、冬場は雪の為に専想寺から養老山を越えられなくなるので急な葬式は近くの正慶寺に法要等をお願いしていた。昭和30年頃まで盆と正月は、専想寺の住職が白石に泊まり込み、何件もお勤めをされた。専想寺もいつからか宗派が本願寺派(西本願寺)に変わってしまったので、余程のことがない限り現在は正慶寺に勤めてもらっている。
白石は水田は少ないが、滝谷の用水により20町歩は潤った。柏尾谷の谷川の筋には、字北井戸といって水田があり、牧場などもあった。多い時には一万石の収穫があったと村の文書に残っており、白石村から津屋川を往来する千石船がみえたといわれている。養老寺の白山神社からは、船の往来が見通せたので「船岡」という字名が残っている。実際に船岡から、船の到着するタイミングを見計らって、鷲巣の船着場まで下りていったことがある。
柏尾と白石の字境に唐傘松、または境松とも呼ばれる松が植えられていた。現在は石碑が建てられている。字境をめぐって論争があったと聞いたことがある。
白石村は田中イゾウと藤塚カンタロウ(いずれも漢字不明)が庄屋だった。

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