昭和の始め頃、笠郷村の面積は千町歩あり、千町田(ちまちだ)といった。

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笠郷は、栗笠・烏江 ・船附の湊は、笠郷地域の文化の繁栄の元となっていた。
昭和10(1935)年前後は、笠郷小学校の2階から牧田川の帆掛船が見えた。梶のぎーぎーという音が学校まで聞こえた。当時は水量が豊富であった。
昭和10年代前半は烏江の鉄橋よりも堤防の方が高かった。また、牧田川の川幅も広く、石を投げても川の中程までしか届かなかった。その下には、渡船場もあった。高淵(たかぶち・現在の大垣市にあった栗笠の隣村)の子は渡し船で笠郷小学校に来ていた。
栗笠に鵜飼船が来ていたと聞いたことがある。また、鵜飼船は大野、小畑にも来ていたそうである。

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A氏の家は地主であった。農地解放まで、地主の家では田植えをしなかった。終戦後の農地解放で土地をほとんど農民に開放した。農地解放後に残った三反の土地で田植えをしたことはある。小作人の生活はあまり分からないが、子どもの頃の友達の家は、地主の家とは違っていた。畳がなく筵が敷いてあり、土間は狭く、土間と床とほとんど変わらない様子であった。
地主と小作人で上下関係が明確であり、年貢を納める時は、玄関で草履を脱いで裸足になるほどであった。

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笠郷地区和田の太鼓は水害で一度無くなってしまった。そのため小野文造氏の父、小野文五郎氏が、伊勢の諸戸(もろと)家に行って、太鼓を作るためのお金を得て新しく太鼓を作った。明治20年~明治30年当時、これほど大きな太鼓は他になかったそうである。なお、諸戸家は自分の土地だけで、桑名まで行けたというほどの財閥であった。
昭和35年(1960年)に、笠郷地区和田が所有する太鼓が再び破れた。当時の自治会長が、一年後三重県の阿部太鼓店へ貼り替えに行った。太鼓の中に作成した日が書いてあったように記憶している。太鼓の写真が和田の集会所に置いてあったように思う。

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笠郷地区は昔から全体的に教育レベルが高い。その理由は、庄屋渋谷代衛(しぶやだいえい)氏が明治以降教育の高レベルを保つ基礎を作ったからである。また、他の村(下笠、大野、船附、栗笠、上之郷)との競争があったということも理由としてあげられる。
下笠には、立身第二小学校があった。

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