笠郷で昭和10(1935)年頃は、高田祭に行かないと恥ずかしかった。親の都合が悪い時は、隣の人に連れて行ってもらうこともあった。
後にA氏が池辺小学校に教師として赴任してきた頃、池辺は日吉や室原など、養老の北の方とは交流がなかったが、やはり5月の高田祭には行った。
笠郷からは、5月初め頃に行われた海津市の円満寺祭へも行った。円満寺は浄土宗で、今は大きな共同墓地があるが、当時はサツキが爛漫と咲いていた。円満寺祭の時は、重箱に御馳走を入れ、家族ぐるみで出かけて山に登った。春祭りは野良仕事に入る前の娯楽で、この春祭りが終わると野良仕事が始まった。笠郷、三ツ屋、構(かまえ)からも円満寺祭に来る人がいた。
学校は、小祭の時は半休、村の本祭りの時は休みであった。村の祭りは理由をつけて遊ぶ、家族団欒の日であった。親子は常に一緒に行動をしていた。神楽師の興業も出店もあった。
和田の村の寺、浄誓寺の報恩講にも出店は来ていた。高田町の専念寺の報恩講は、出店がたくさん来ていた。
地域行事は、先祖伝来のものである。集団の和は、指導しなくても、子供たち、地域の人たちは肌で感じていた。地域の民衆生活の知恵、お互い様という感覚が当時は強かった。

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下笠では4月に田んぼ休み(野休み。「のやすみ」または「のうやすみ」)が1日あった。野休みに田んぼへ行くと、罰金を取られた。罰金を出さないと、村八分にされた。火事、葬式以外村八分にされてしまうので、皆従った。やがて戦争が始まり男手が無くなると、野休みなど村共通の休みの日でも、午前中は畑へ行っても良いことになった。
野休みのときは、集会を開いて肉飯のような御馳走を出し、情報交換やお互いの相談などをした。馬肉は貴重品だったので、御馳走だった。
野休みは、骨休みであり、集会を開く日でもあった。集会には、1軒に1人は参加した。
昔は現金が貴重であったので、本来は禁止されていたが野休みの時に日銭を稼ぎに行く人もいた。

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下笠では昔は、結婚や子どもの誕生で、寺や神社へお参りに行った。特に、子どもが生まれた時は氏神の子(=下笠の子)になるということで、神社へ初参りに行く。A氏の息子たちが生まれた時もお参りに行ったが、現在の人たちはどうしているか分からない。
下笠のA氏が生まれたときに、地主がシチアゲ(産室から子供が初めて出る儀式)をしてくれた。
下笠では人が亡くなれば、手次寺(ししょうじ/てつぎでら)へ枕経をお願いしに行く。

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昭和10年代、農繁期にご祖父母が自宅で託児所を開いていた。農繁期になると学校は休みであったが、小さな子どもを田畑へ連れていくことはできないので、家で子守がいない人は、藁で作った丸い桶に子どもをいれておいて、田植えに出かけていた。そのため、農繁期には水の事故で亡くなるなど、子どもの死亡事故が多かった。そのような理由からご祖父が、農繁期には子どもを預り、皆が安心して田植えをできるようにした。A氏のお母様が裁縫をしており、普段はお針子さんを呼んでいたが、農繁期にはお針子さんも忙しくて呼べないので、その場所を使って託児所にした。
昔は和田の人は、字細池(ほそいけ)の向こう、字日暮(ひぐらし)まで仕事に行った。日暮は、行って帰ってくると日が暮れるの意で、それほど遠い所まで歩いて働きに行っていた。子どもを連れて働きに行くことは難しいので、託児所は皆から感謝された。隣近所の家の子どもの面倒を見るのは当然のことであったが、その業績を讃えて皇后陛下から金一封と博愛旗という赤い旗を賜った。「畏こくも・・・」で始まる表彰記念の文があり、今でも額に入れてある。
出征した兵士の家に慰問で農作業を手伝いに行ったこともある。

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笠郷地区では、昔は番水制があった。田んぼの水が不足すると順番待ちだったので田植えの時期が遅くなった。水が入るとすぐにお互いに手伝いに行った。
笠郷地区の田んぼに水を入れるため、昭和8(1933)年に下笠用水が引かれた。下笠用水は杭瀬川から水を引くために牧田川の下を通して金草川を逆流させて作られた用水であるが、現在はほとんど使われていない。
笠郷から下流にも水を流さなければならないので、水を止める日が決まっており、田植えの時期は決まっていた。野上りまでには植え終わらなければならなかった。田植えが終わると田植えボタ餅を配った。明くる日から2日ほど野休みにした。野休みのときは外に儲けには行かず、家で農作業の後始末をした。
笠郷の字和田(わだ)は、地主と小作人の階級があったが、字中島(なかじま)は小作人がほとんどであった。田植えの日は厳しく決められており、7月2日、夜が明けるとすぐに植えた。水の取り合いや水泥棒などがあった。何時から何時まで水門を開ける、など決められていて、カンテラを持って番をする者もいた。
大場と下笠はよく水をめぐって争いになった。雨になると排水のために上の村である下笠は水を流したい、下の村である大場は上流から水を流されたら困るので止めたい、という争いだった。
稲刈の時期は自由であった。田植えが終わると、田の草取りも同じように助け合った。昔は機械ではなく牛で作業をしており、田をおこすのが大変だった。長いスパンでお互いの貸し借りを帳消しにして、助けあった。
田んぼがあるので、二男三男は外に出しても、長男は家から出さなかった。お金のある家であっても、中学校へ行かせると外に出てしまうので、安八農学校(大垣市の農業高校)へ行かせ、それ以上は進学させなかった。地主の子どもでも、笠郷では広い田んぼを持っていると、土地があるという理由からあまり上の学校へ進学させなかった。栗笠、大野などでは、上の学校へ行って、偉い人になる人も多かった。

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