笠郷地区では、昔は番水制があった。田んぼの水が不足すると順番待ちだったので田植えの時期が遅くなった。水が入るとすぐにお互いに手伝いに行った。
笠郷地区の田んぼに水を入れるため、昭和8(1933)年に下笠用水が引かれた。下笠用水は杭瀬川から水を引くために牧田川の下を通して金草川を逆流させて作られた用水であるが、現在はほとんど使われていない。
笠郷から下流にも水を流さなければならないので、水を止める日が決まっており、田植えの時期は決まっていた。野上りまでには植え終わらなければならなかった。田植えが終わると田植えボタ餅を配った。明くる日から2日ほど野休みにした。野休みのときは外に儲けには行かず、家で農作業の後始末をした。
笠郷の字和田(わだ)は、地主と小作人の階級があったが、字中島(なかじま)は小作人がほとんどであった。田植えの日は厳しく決められており、7月2日、夜が明けるとすぐに植えた。水の取り合いや水泥棒などがあった。何時から何時まで水門を開ける、など決められていて、カンテラを持って番をする者もいた。
大場と下笠はよく水をめぐって争いになった。雨になると排水のために上の村である下笠は水を流したい、下の村である大場は上流から水を流されたら困るので止めたい、という争いだった。
稲刈の時期は自由であった。田植えが終わると、田の草取りも同じように助け合った。昔は機械ではなく牛で作業をしており、田をおこすのが大変だった。長いスパンでお互いの貸し借りを帳消しにして、助けあった。
田んぼがあるので、二男三男は外に出しても、長男は家から出さなかった。お金のある家であっても、中学校へ行かせると外に出てしまうので、安八農学校(大垣市の農業高校)へ行かせ、それ以上は進学させなかった。地主の子どもでも、笠郷では広い田んぼを持っていると、土地があるという理由からあまり上の学校へ進学させなかった。栗笠、大野などでは、上の学校へ行って、偉い人になる人も多かった。
大場八幡神社の北側に鼻ヶ橋樋管(はながしひかん)があり、樋管の開け閉めの権限は大場が持っていた。表示位置は和田を示している。