昭和10年代、農繁期にご祖父母が自宅で託児所を開いていた。農繁期になると学校は休みであったが、小さな子どもを田畑へ連れていくことはできないので、家で子守がいない人は、藁で作った丸い桶に子どもをいれておいて、田植えに出かけていた。そのため、農繁期には水の事故で亡くなるなど、子どもの死亡事故が多かった。そのような理由からご祖父が、農繁期には子どもを預り、皆が安心して田植えをできるようにした。A氏のお母様が裁縫をしており、普段はお針子さんを呼んでいたが、農繁期にはお針子さんも忙しくて呼べないので、その場所を使って託児所にした。
昔は和田の人は、字細池(ほそいけ)の向こう、字日暮(ひぐらし)まで仕事に行った。日暮は、行って帰ってくると日が暮れるの意で、それほど遠い所まで歩いて働きに行っていた。子どもを連れて働きに行くことは難しいので、託児所は皆から感謝された。隣近所の家の子どもの面倒を見るのは当然のことであったが、その業績を讃えて皇后陛下から金一封と博愛旗という赤い旗を賜った。「畏こくも・・・」で始まる表彰記念の文があり、今でも額に入れてある。
出征した兵士の家に慰問で農作業を手伝いに行ったこともある。

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表示位置は字日暮を示している。