昭和10年代後半に上多度地区横屋のA氏が乳牛を飼っており、乳搾りをしていた。牛舎があり、乳牛5、6頭で、1日30~40本程作っていたのではないだろうかと思う。牧場はなく、放牧は堤防の原っぱへ行ったのではないだろうか。
A氏は広幡の辺りまで、自転車で牛乳を売りに来ていた。昔は、牛乳瓶に入っていて、蓋は木のコルクであった。A氏は、子ども好きだった。朝牛乳を売りに来ていたが、配達中に自転車の前に乗せて遊んでもらった記憶がある。A氏は、変わった人で、オールバック、肩までのロングヘアで、芸術家肌であった。お嫁さんはいなかった。
昔は一般家庭にも牛がいた。農家の人は、朝4時頃から堤防に牛の餌を取りに草刈りに行き、籠の中に入れて帰ってきた。牛の種類はホルスタインであった。

Posted in その他, 上多度, 広幡, 経済 | Tagged , | Leave a comment

大野は養蚕を行っていたが、和田では行われていなかった。大野は、牧田川の河川敷で桑を作っていた。
和田の辺りでも、桑畑はたくさんあり、桑畑で現金収入を得る人が多かった。竹籠に桑の葉を摘んだ。
昭和10年代は、桑畑に入って桑の実を摘んで遊んでいた。食べると口の中が紫色になった。足で踏むと桑の木が傷むので、怒られたことがある。
和田での桑畑以外の現金収入としては、百姓の子どもたちが、川で魚を取って、三ツ屋の山種(やまたね)に売りに行くというものがあった。ドッペを川に入れて、魚を獲った。取った魚は、家でも食べた。ウエ(竹の真ん中に紐をつけて沈めておく漁獲具)、ドッペ(竹のかごを伏せて沈めておく漁獲具)で魚を捕った。ウナギやナマズが入っていた。小学校の頃に、ドッペを開けて、中の魚を逃がしていたら、職員室に呼び出されて、生活がかかっている人がいると怒られた。

Posted in 教育, 笠郷, 経済, 食事 | Tagged , , | Leave a comment

昭和20(1945)年12月に福井大地震が起こった時、A氏はちょうど学校から帰る所だった。立っていられなくて、皆堤防の中腹に倒れ込んでしまった。岩道の家に帰ると、下駄箱がひっくりかえり、色々な物が折れていた。折れた柱を戻して、ブリキで挟んで直した。地震の被害は大きかった。
広幡東部の辺りは、地盤が弱い。当時の広幡小学校(現在の公民館)の建っていた場所では、液状化現象が起こった。運動場で地割れがあり、2m弱の高さで砂混じりの水を噴いた。水を噴いた場所は、今の公民館の北側の駐車場の南である。
口ヶ島は家の倒壊はなかったが、校舎、家屋とも傾いたため、後に立て起しを行った。地震の後は、どこの家も補強のため筋交いを斜めに打った。今でも筋交いが残っている蔵などがある。地震の後は、学校が休みになった。
岩道の辺りの学校は、全て木造校舎だったので、傾いてしまった。傾いた学校を起こして、鉄の棒で支えたので、「つんばり学校」と呼んだ。
地震当時、A氏のお父様は上多度小学校に勤めていた。上多度小学校は、全部ぺしゃんと潰れてしまった。後に学校の重要な物やオルガンを掘り出し、出した物は、A氏の家などに一部疎開させていた。その時にオルガンも持ってきていたのでA氏がそれを引いて練習したこともある。
元の上多度小学校は地盤が低い場所にあったので、地盤の高い現在の場所に移った。
横屋では、43軒中40軒が倒れたので、それに懲りて養老駅の少し上がった所へ疎開した人もいた。

Posted in その他, その他, 上多度, 広幡, 災害 | Tagged , | Leave a comment

今尾には名古屋の田代小学校(名古屋市千種区)から疎開児童が来ていて、笠郷小学校で一緒に勉強していた。縁故疎開ができない者は、行政機関が学校ごとでまとめて疎開させたからである。依頼を受けた今尾町は、宿舎を平田町須賀の浄円寺に頼んだ。女性の教師が引率していた。

Posted in その他, 教育, 笠郷, 経済 | Tagged , | Leave a comment

戦時中は日本中で兵隊送りという、出征兵士を送る行事があった。兵士を先頭にして、軍楽(ぐんがく)隊(またはラッパコ隊)がいて、ラッパを吹き、日の丸を振って烏江の駅まで送り出した。
A氏が広幡小学校1年生の頃の昭和10年代後半、同級生と下校中に、知らない人が写真を撮ってくれた。当時、写真機は家庭になく、このように撮られることはまずなかったので、貴重な1枚だと思っている。
この頃は、巻絆(まきはん)を巻いて学校に通っていた。巻絆は、鉄砲の弾が当たっても怪我をしないように、布切れを足に巻きつけたものである。小学校1年生から巻絆を巻く練習をしていた。運動したり、動いてもずり落ちないように、布を斜めにしてきゅっと巻きつけた。また、学校に行く時には尖鍬(とんぐわ)や鎌を持って、午前中は授業を受け、毎日お昼から高林へ開墾作業に行った。
朝の登校は、岩道から広幡小学校へ並んで歩いて行くと、学校の100m手前から、「歩調を取れ」という号令がかかった。号令がかかると、足並みが乱れない様に右、左、右、左、と足をきちっと高く上げて、手を振って、学校へ入って行った。玄関先に上級生が立って見ていた。戦争中なので、空襲警報が発令されたら、堤防で伏せなければならなかった。
この頃、ほとんどの教師は国民服を着ていた。

Posted in 広幡, 教育, 経済 | Tagged , | Leave a comment