広幡は各地区に昔から大地主がいた。大跡の戸倉氏、口ヶ島の田中氏とその分家、西岩道の西脇氏などである。岩道の久保田家は中間地主であり、流れは田中耕馬氏からきていて、田中家の田んぼを預っていたこともあった。しかし、農地改革によって、大地主は大打撃を受けた。久保田家のような中間地主の場合は、田んぼも大部分は取られたが、自給自足できる程度の田んぼは残った。一方土地を借りていた小作人は、非常に安価で土地を購入できた。
やがて、機戒が入れるように道幅が広がった。田んぼの売買が進み、昔は小作人だった人が潤うようになり、大地主と呼ばれた家が没落する逆転現象もみられた。

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昭和10年代後半に上多度地区横屋のA氏が乳牛を飼っており、乳搾りをしていた。牛舎があり、乳牛5、6頭で、1日30~40本程作っていたのではないだろうかと思う。牧場はなく、放牧は堤防の原っぱへ行ったのではないだろうか。
A氏は広幡の辺りまで、自転車で牛乳を売りに来ていた。昔は、牛乳瓶に入っていて、蓋は木のコルクであった。A氏は、子ども好きだった。朝牛乳を売りに来ていたが、配達中に自転車の前に乗せて遊んでもらった記憶がある。A氏は、変わった人で、オールバック、肩までのロングヘアで、芸術家肌であった。お嫁さんはいなかった。
昔は一般家庭にも牛がいた。農家の人は、朝4時頃から堤防に牛の餌を取りに草刈りに行き、籠の中に入れて帰ってきた。牛の種類はホルスタインであった。

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大野は養蚕を行っていたが、和田では行われていなかった。大野は、牧田川の河川敷で桑を作っていた。
和田の辺りでも、桑畑はたくさんあり、桑畑で現金収入を得る人が多かった。竹籠に桑の葉を摘んだ。
昭和10年代は、桑畑に入って桑の実を摘んで遊んでいた。食べると口の中が紫色になった。足で踏むと桑の木が傷むので、怒られたことがある。
和田での桑畑以外の現金収入としては、百姓の子どもたちが、川で魚を取って、三ツ屋の山種(やまたね)に売りに行くというものがあった。ドッペを川に入れて、魚を獲った。取った魚は、家でも食べた。ウエ(竹の真ん中に紐をつけて沈めておく漁獲具)、ドッペ(竹のかごを伏せて沈めておく漁獲具)で魚を捕った。ウナギやナマズが入っていた。小学校の頃に、ドッペを開けて、中の魚を逃がしていたら、職員室に呼び出されて、生活がかかっている人がいると怒られた。

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昭和20(1945)年12月に福井大地震が起こった時、A氏はちょうど学校から帰る所だった。立っていられなくて、皆堤防の中腹に倒れ込んでしまった。岩道の家に帰ると、下駄箱がひっくりかえり、色々な物が折れていた。折れた柱を戻して、ブリキで挟んで直した。地震の被害は大きかった。
広幡東部の辺りは、地盤が弱い。当時の広幡小学校(現在の公民館)の建っていた場所では、液状化現象が起こった。運動場で地割れがあり、2m弱の高さで砂混じりの水を噴いた。水を噴いた場所は、今の公民館の北側の駐車場の南である。
口ヶ島は家の倒壊はなかったが、校舎、家屋とも傾いたため、後に立て起しを行った。地震の後は、どこの家も補強のため筋交いを斜めに打った。今でも筋交いが残っている蔵などがある。地震の後は、学校が休みになった。
岩道の辺りの学校は、全て木造校舎だったので、傾いてしまった。傾いた学校を起こして、鉄の棒で支えたので、「つんばり学校」と呼んだ。
地震当時、A氏のお父様は上多度小学校に勤めていた。上多度小学校は、全部ぺしゃんと潰れてしまった。後に学校の重要な物やオルガンを掘り出し、出した物は、A氏の家などに一部疎開させていた。その時にオルガンも持ってきていたのでA氏がそれを引いて練習したこともある。
元の上多度小学校は地盤が低い場所にあったので、地盤の高い現在の場所に移った。
横屋では、43軒中40軒が倒れたので、それに懲りて養老駅の少し上がった所へ疎開した人もいた。

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今尾には名古屋の田代小学校(名古屋市千種区)から疎開児童が来ていて、笠郷小学校で一緒に勉強していた。縁故疎開ができない者は、行政機関が学校ごとでまとめて疎開させたからである。依頼を受けた今尾町は、宿舎を平田町須賀の浄円寺に頼んだ。女性の教師が引率していた。

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