昭和20(1945)年12月に福井大地震が起こった時、A氏はちょうど学校から帰る所だった。立っていられなくて、皆堤防の中腹に倒れ込んでしまった。岩道の家に帰ると、下駄箱がひっくりかえり、色々な物が折れていた。折れた柱を戻して、ブリキで挟んで直した。地震の被害は大きかった。
広幡東部の辺りは、地盤が弱い。当時の広幡小学校(現在の公民館)の建っていた場所では、液状化現象が起こった。運動場で地割れがあり、2m弱の高さで砂混じりの水を噴いた。水を噴いた場所は、今の公民館の北側の駐車場の南である。
口ヶ島は家の倒壊はなかったが、校舎、家屋とも傾いたため、後に立て起しを行った。地震の後は、どこの家も補強のため筋交いを斜めに打った。今でも筋交いが残っている蔵などがある。地震の後は、学校が休みになった。
岩道の辺りの学校は、全て木造校舎だったので、傾いてしまった。傾いた学校を起こして、鉄の棒で支えたので、「つんばり学校」と呼んだ。
地震当時、A氏のお父様は上多度小学校に勤めていた。上多度小学校は、全部ぺしゃんと潰れてしまった。後に学校の重要な物やオルガンを掘り出し、出した物は、A氏の家などに一部疎開させていた。その時にオルガンも持ってきていたのでA氏がそれを引いて練習したこともある。
元の上多度小学校は地盤が低い場所にあったので、地盤の高い現在の場所に移った。
横屋では、43軒中40軒が倒れたので、それに懲りて養老駅の少し上がった所へ疎開した人もいた。

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上多度小学校も地震で校舎が倒れかけてしまい、つっかい棒をしたため「つんばり学校」と呼ばれた。 飯積の田んぼの真中でも、液状化現象で砂があがったと聞いた。軽トラック1台分はあったとのことである。表示位置は広幡公民館を示している。