朝日新聞の記事中に、小畑村国民学校と青年学校(高等科の前身)の勤労奉仕で、祖父江輪中堤の天端(てんば、堤防の一番高い所)の開墾をしている写真がある。戦中は大豆などを栽培して食糧増産を図る為に、土手の堤防の荒地を授業後に鍬鋤を振るって開墾した。
写真を見ると祖父江輪中の輪中堤は、現在の倍の広さがあった。昭和17、18年の頃の写真であろうか。学生が持っているのはハト鍬と言って、タケノコを掘るバチ鍬である。また、記事の写真の裏には昭和13年に方円堂(ほうえんどう、高田の書店)で一円で買ったと書いてある。

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明治6(1873)年から明治15(1882)年頃まで、岩道村に立心第二学校があった。校長は戸倉三郎氏、教員はA氏のご祖父と常性寺のご住職の二名が務めていた。寺小屋ではなく、集会所のような感じの所ではないだろうか。岩道の早扉神社から南へ行って、左手にあった。今は畑になっている。
立心第二学校には、岩道、西岩道、上之郷の子が通った。

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広幡地区の東岩道のあたりには、地元のお寺である常性寺(じょうせいじ)の門徒の他、西福寺(さいふくじ)、大垣市野口町の聚楽寺(じゅらくじ)の門徒がいる。
岩道には全部で4軒ほど、浄土真宗から日蓮宗へ宗派を変えた家があった。
他所門徒が多い理由は分からない。常性寺門徒は、常性寺付近に固まっているということはなく、地区全体にばらついている。
早扉神社も常性寺も岩道全体でお世話をしている。門徒ではない人も、寄付をし、報恩講など寺の行事は全て参加している。
常性寺の行事は主に長寿会がお世話をしている。お斎(とき)は多額の寄付をした人と、当番(4年に1回)の人だけが参加する。

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笠郷で、田植えが終わる野上り(のあがり、またはのうあがり)の時期になると野上り団子を作って皆に配った。小麦粉(うどん粉)にあんこが入っていてちまきのような感じであった。地区によっては丸い葉で包んだ。池の淵にあった葉を取りに行った。葉の名前は分からない。

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昭和30年代は、高田では昔の女郎遊びはなくなった。
大垣の水門川の横で、女性が屋台を出しており、A氏はそこへよく行った。養老には屋台はなかったが、高田に一杯飲み屋があった。
養老公園周辺では、一杯飲み屋はなかったが、旅館での宴会はよくやっていた。
高田には高田芸者がいたように、池野芸者、墨俣芸者、大垣芸者など地域ごとに芸者がおり、それぞれに特徴があった。例えば高田芸者は活発だが池野芸者はおとなしい、など。昔の芸者遊びでは時間の区切りを線香で計っていたが、「今日は2本(約2時間)で」というと、「もう1本(約1時間)いきましょう」というのは墨俣芸者で、非常にしっかりしていた。
高田には芸者の置屋さんがあり、何十人と芸者さんがいた。また、今に比べると一杯飲む機会が多かった。
養老町外の人が養老町に仕事に来たときや、目上の人を迎える時は、お答拝(おたっぱい)をする習わしであった。お答拝の用意をできる人が力のある人と考えられた。

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