人が日常から集まる場所として洗濯場があった。朝の内は主婦が集まった。用水を汲み上げる貯水槽のような場所や池、井戸がある場所に、A氏の所の洗濯場、B氏の所の洗濯場等、個人の洗濯場が何ケ所もあった。今も旧八幡神社の傍に洗濯場が残っている。
飯田の村中には用水路が通っていた。その水は各戸にひかれた後、村の公共の川である江川へと注ぎ込まれ、小畑川へと流れていった。
オムツを洗う時は、江川と合流する用水路の最下流で洗った。
井戸屋形(いどやかた)、池がある家もあった。
共同の水洗い場は付近の人が使用したが掃除の当番などは決まっておらず、気づいた人がゴミを拾うなどしていて、いつも綺麗だった。最近では、水洗い場を使う人はもういない。
昔は家と家の境に整備された排水路や側溝がなかったので、素掘りの溝に水を流した。垣根などもなく小道(こみち)のようになっていて、皆が自由に人の家の横を通り抜けて遊んでいた。今はしっかり境界を作って家と家の境をはっきりさせてしまっている。
飯田では夏になると井戸が干上がってくるので井戸ポンプで水をくみ上げた。水が豊富にある時は村中を通る用水から各戸に水を引いているので、家の中で洗い物が出来た。池に鯉や鮒などの魚を入れて、見て楽しむ人もいた。食べる魚はその池には入れなかった。当時の子どもはよく魚釣りをした。
昔、飯田は車山を所有していた。いつの時代にその車山がなくなったかは不明である。
車山が通るため、村の中には九尺道路(幅約2.7m)があった。普通は六尺道路(幅約1.8m)である。九尺道路も、車山が通る所までで、途中から六尺になっていた。八幡神社の元宮の場所も、西へ向かう道は広く、途中からせまくなっている。
昭和の半ば頃は、車山が通る道を車山道と呼んでいた。
笠郷の下笠輪中や広幡の飯ノ木輪中には株井戸制度(かぶいどせいど)があった。株井戸は水脈によって水量が異なる。岩道、中島は水がよく出る。和田ではあまり出ないのでかなり深く掘る。それでも泥まじりのそぶ水で、今飲んだら下痢をしそうな水質であった。場所によっては、8間(約14.4m)ほど掘れば出てくる所もある。
和田の百間堀(ひゃっけんぼり)の井戸の中では、二軒のみが綺麗で冷たい水であった。水は、苗場に井戸水が常時必要であったが、あまり何本も掘ると、多芸輪中全体の悪水の排水に影響してくる。特にこの地域では、井戸を掘ると水が出っぱなしになるので、水ハケの悪い場所は井戸を掘る場所としては不適であった。
養老町石畑にあった椿井(つばい)という地名は、日本各地に多く存在する。
石畑のあたりはかつて椿井郷(つばいごう)と呼ばれていた事が浄誓寺文書に残っている。
浄誓寺付近の字名は東門(とうもん)というが、大きな門があったためこの字名が付けられたのではないだろうかと思う。
フジイ木工(藤井ハウス産業 押越1974)付近の交差点のあたりの地名をかつては大圦(おおゆり)と言った。石畑川の本流はそちらに向かって流れており、一部は明徳の方へ流れていた。
里伝では明徳4年(1393)に左大臣足利義満が、養老観瀑に訪れた際に船付場を利用したとされている。その際に義満が船を繋いだといわれる船繋ぎ石のあった場所はよく分かっていない。石があったと伝えられている柳原という小字は、明徳の養老鉄道の線路の東側にあたる。中世の頃から石畑川には船の往来があったので、石畑川のそばに船繋ぎ石があったのではないだろうか。
船着神社(ふなちゃくじんじゃ)の鳥居のあったところを通称浜見の鳥居跡と言った。
昔、石畑の飛地が鷲巣の白山神社の西にあった。今もその飛地はある。家が二軒建っており、二軒在家と呼ばれていた。
現在の養老警察署の周辺に兜木(かぶとぎ)、柏尾谷から流れてきた水が石畑川と合流する辺りに浄土(じょうど)という地名があった。浄土の辺りは土地改良で昔と風景は変わってしまった。県道56号線(南濃関ケ原線)より東、養老警察署から押越のあたりまでの一帯を八郎塚(はちろうづか)といい、現在でも小字名として残っている。小字八郎塚内に、押越の八幡神社から養老へ向かう旧道があったが、現在はほとんど残っていない。養老警察署裏手の道から西あたりまでの石畑川は護岸工事がされているが、川の流れは昔のままである。これらの地名のいわれは以下のように伝わっている。
八郎衛門(苗字は不明)という源氏の家来が、逃亡中に怪我をして石畑の付近で亡くなり、その辺りを浄土と呼んだ。村人が八郎衛門の亡骸を石畑川で洗い、丁寧に葬った場所が八郎塚である。小字八郎塚は周辺よりも少し小高くなっていたそうである。1940年代には、土地改良以前は小字八郎塚は周辺より小高くなっていた記憶があるが、石塔があったかどうかは覚えていない。以前は小字八郎塚周辺には民家等は全くなかったが、現在は住宅が立ち並び昔の面影はない。兜木は、八郎衛門が亡くなった際に、八郎衛門が身に付けていた兜を敵の追っ手を欺き逃れるため、村人が大きな木に掛けたことからその地名がつけられた。兜を掛けたといわれる大きな木は現在はもう残っていないが、養老警察署の南あたりにあった大きな圦のそばに木があったそうである。
浄土、兜木、八郎塚の地名は誰がつけたものかは不明である。この地名や所以を知っているのは2012年現在で60代以上の人だけであろう。