養老町石畑にあった椿井(つばい)という地名は、日本各地に多く存在する。
石畑のあたりはかつて椿井郷(つばいごう)と呼ばれていた事が浄誓寺文書に残っている。
浄誓寺付近の字名は東門(とうもん)というが、大きな門があったためこの字名が付けられたのではないだろうかと思う。
フジイ木工(藤井ハウス産業 押越1974)付近の交差点のあたりの地名をかつては大(おおゆり)と言った。石畑川の本流はそちらに向かって流れており、一部は明徳の方へ流れていた。
里伝では明徳4年(1393)に左大臣足利義満が、養老観瀑に訪れた際に船付場を利用したとされている。その際に義満が船を繋いだといわれる船繋ぎ石のあった場所はよく分かっていない。石があったと伝えられている柳原という小字は、明徳の養老鉄道の線路の東側にあたる。中世の頃から石畑川には船の往来があったので、石畑川のそばに船繋ぎ石があったのではないだろうか。
船着神社(ふなちゃくじんじゃ)の鳥居のあったところを通称浜見の鳥居跡と言った。
昔、石畑の飛地が鷲巣の白山神社の西にあった。今もその飛地はある。家が二軒建っており、二軒在家と呼ばれていた。
現在の養老警察署の周辺に兜木(かぶとぎ)、柏尾谷から流れてきた水が石畑川と合流する辺りに浄土(じょうど)という地名があった。浄土の辺りは土地改良で昔と風景は変わってしまった。県道56号線(南濃関ケ原線)より東、養老警察署から押越のあたりまでの一帯を八郎塚(はちろうづか)といい、現在でも小字名として残っている。小字八郎塚内に、押越の八幡神社から養老へ向かう旧道があったが、現在はほとんど残っていない。養老警察署裏手の道から西あたりまでの石畑川は護岸工事がされているが、川の流れは昔のままである。これらの地名のいわれは以下のように伝わっている。
八郎衛門(苗字は不明)という源氏の家来が、逃亡中に怪我をして石畑の付近で亡くなり、その辺りを浄土と呼んだ。村人が八郎衛門の亡骸を石畑川で洗い、丁寧に葬った場所が八郎塚である。小字八郎塚は周辺よりも少し小高くなっていたそうである。1940年代には、土地改良以前は小字八郎塚は周辺より小高くなっていた記憶があるが、石塔があったかどうかは覚えていない。以前は小字八郎塚周辺には民家等は全くなかったが、現在は住宅が立ち並び昔の面影はない。兜木は、八郎衛門が亡くなった際に、八郎衛門が身に付けていた兜を敵の追っ手を欺き逃れるため、村人が大きな木に掛けたことからその地名がつけられた。兜を掛けたといわれる大きな木は現在はもう残っていないが、養老警察署の南あたりにあった大きなのそばに木があったそうである。
浄土、兜木、八郎塚の地名は誰がつけたものかは不明である。この地名や所以を知っているのは2012年現在で60代以上の人だけであろう。

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義満の船繋ぎ石のあった場所は、町史によると明徳地内である。現在は土地改良によって移動され所在は不明である。表示位置は浄土の辺りを示している。