食事

昭和20年代から30年代にかけて、正月の食事はほとんど餅であった。家で作ったもち米で、餅を四升臼で20回位搗いた。四升臼1回を80個に切った。かき餅やあられも作った。親戚の家を順番に臼を持って回って餅つきを行った。
おせち料理もあったが立派なものではなく、餅
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押越では、各家に井戸があった。夏場に水が干上がることもあったが、その時はポンプを使った。
現在は30間(約54.5m)掘っているが、昔は6間(約11m)堀りであった。その為、吹き上げる力がないので、家の階段の下の低い場所に井戸を掘った。
水場は二つに仕切っ
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昭和20年代には押越で土葬をしていた記憶はない。押越には早くから火炉があり、威張っていた。
勢至では穴を掘り、長時間火が起きているように藁で遺体を包んで燃やしていた。A氏が勢至に遊びに行った時に、偶然火葬している所を見たことがある。
押越の墓地は、蔓草や木
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押越の生業は、ほとんどが農業であった。押越の北側にある新道町はサラリーマンが多かった。新道町は「町内(まちうち)」と呼んでいた。
養蚕は昭和30年(1955)位まで、長いこと行っていた。トラックに積んで、繭を恵那まで持って行った。石畑や明徳は桑畑ばかりであっ
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A氏が子供の頃の昭和20年代から30年代にかけて、除川やオダ(漢字不明)川(字村東)でフナ、モロコ、ハエ、オイカワを釣った。魚釣りをしたオダ川の場所は、2012年頃に9軒ほど家が建った場所の南側である。押越の川の水はほどんどそこへ流れていた。
高田地区押越字
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