昭和20年代には押越で土葬をしていた記憶はない。押越には早くから火炉があり、威張っていた。
勢至では穴を掘り、長時間火が起きているように藁で遺体を包んで燃やしていた。A氏が勢至に遊びに行った時に、偶然火葬している所を見たことがある。
押越の墓地は、蔓草や木が生い茂っていて、肝試しをする良い場所であった。夏は、年に1度位肝試しを行っていた。お寺やお宮でも肝試しをやっていた。子供の頃は、夜の墓地には怖くて行けなかった。
押越では清華苑が出来るまでは、お葬式は自宅で行っていた。
葬式の時の食事には、八杯汁、飛竜頭(ひりょうず)、刺身が出た。昔は、今のように仕出しは取らずに、農家の人が自分たちで料理を作った。煮付けが多かった。肉類は一切出ず、八杯汁は、必ず出ていた。八杯汁とは豆腐、油揚げ等が入っているおすましである。豆腐を大きく八つに切るから八杯汁と呼ぶのではないだろうかと思う。お葬式の手伝いに行った時に、「豆腐を小さく切らないように」と怒られたことがある。
押越のお葬式は、班ではなく、「地下(じげ)」と呼ぶ地元の親戚で執り行い、他所に住む親戚が来るとおもてなしをしていた。他所から移住してきて近くに親戚がいない人は、5、6人でお葬式をしなければならないので、大変であった。
ただし、この地下の関係は主に冠婚葬祭の時の助け合いのためのつながりらしく、A氏がお父様に地下の親戚との関係を聞いた時に、「俺も分からない。昔隣に住んでいたらしい」といういい加減な答えであった。お葬式の時など、お手伝いし合わなければ生活できないので、このような親戚を作ったのであろうと思う。家が落ちぶれると、親戚が逃げてしまうので、いっぺんにそれまでの関係が駄目になってしまった。その程度の冠婚葬祭だけの親戚である。

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表示位置は押越の墓地を示している。