押越の生業は、ほとんどが農業であった。押越の北側にある新道町はサラリーマンが多かった。新道町は「町内(まちうち)」と呼んでいた。
養蚕は昭和30年(1955)位まで、長いこと行っていた。トラックに積んで、繭を恵那まで持って行った。石畑や明徳は桑畑ばかりであった。
A氏の家は、昔あった石畑の競馬場のすぐ下に2反ほどの桑畑を所有していた。桑畑まで、家からリヤカーを引いて行った。
いつからのものかは分からないが、A家は石畑の土地を所有している。先祖伝来の土地か、購入か、借地か、ひょっとしたら山を開墾したのかもしれない。
養蚕はほとんどの家が行っていた。一時期は、蚕の時期(春蚕、秋蚕)になると、家中にムシロを敷いて一家総出で世話をしていた。養蚕の収入は、結構あったと思う。生糸はすぐにお金になった。虫供養もしていた。
蚕の時期は烏江へ行って桑の皮むきをした。桑の皮は、兵隊さんの服になった。行った先の家でお菓子が貰えるのが楽しみであった。
A氏は昭和30年代に家の農作業を手伝うことはあったが、運送会社の仕事もやっていた。昭和30年代は給料が5千円ほどであったのに対してお米が1俵4千円位だったので、やがては農家を継ごうと思っていた。しかし、農業では生計が成り立たなくなってきたので、結局農業は止めてしまった。
昔は大麦を潰して、麦飯にして食べていたが、ゴミが混じっていることもあり、つまみ出しては食べていた。
濃州の三湊(烏江、栗笠、船附)に船が来て賑わっていた、とか、笠郷地区の船附という地名も、船をつけていた場所であることから来ている、と鷲巣のB氏から聞いたことがあるが、石畑川に出入りする船を見た記憶はない。三湊に比べると押越には他の地域から来た人が立ち寄るような場所はなく、人の出入りは多く無かった。
農家の冬の仕事に柴売りがあった。のこぎりで切って、割って束にするのは時間が掛かった。
冬は薪割りが子供の仕事であった。薪割りは、冬が多いが基本的には年中ある仕事であった。大きい薪は大人が割った。
お風呂を焚く時の焚き物は、柴、麦藁、ごう(松の落ち葉)を使用した。柴は石畑地区の色々な山で取れた。買う時は、一山単位で養老地区まで買いに行った。八年くらいたった木の端が柴になる。
昭和60年代に、棕櫚(しゅろ)屋ができ、土嚢用に使う棕櫚縄を作っていた。滋賀県に良く出荷していた。

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押越の村では燃料を取るために白石の山を持っていた。一部は押越村の所有で、一部は白石村からの借地であった。表示位置は押越新道町を示している。