南小倉の代参と左義長
南小倉では伊勢参りは一時途絶えたが昭和の中頃に復活して以来、伊勢の内宮、外宮と石清水八幡宮は部落としてお参りしている。 左義長は平成に入ってから3世代交流の場として行っている。子供たちに天筆を書かせ、1時頃に左義長の火をつけて餅を焼く。5時頃に代参迎えをして [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
その他
南小倉では伊勢参りは一時途絶えたが昭和の中頃に復活して以来、伊勢の内宮、外宮と石清水八幡宮は部落としてお参りしている。 左義長は平成に入ってから3世代交流の場として行っている。子供たちに天筆を書かせ、1時頃に左義長の火をつけて餅を焼く。5時頃に代参迎えをして [...]
近鉄養老線は養老山麓側を通すというものと、海津市平田町の今尾を通すという2つの案があった。最終的に養老山麓側に近鉄養老線が開通したのは、佐竹直太郎氏の影響力ではないだろうかと思う。近鉄養老線開通に伴う烏江駅設置には牧田川改修工事も大きく絡んでいる。 近鉄養老 [...]
烏江には、庄屋で200年以上も続いた吹原家がある。吹原家は代々勘兵衛(ふきはら かんべえ)を襲名した。吹原勘兵衛は、養老町の烏江湊の舟問屋を勤めた庄屋である。 関ケ原合戦の時、吹原勘兵衛(ふきはら かんべえ)氏が、舟で徳川の退去を手助けした。その恩として家康 [...]
沢田の下町、上町をマチ、山手の本郷をマチマチと言った。昭和10年代は店が多く、自転車屋、旅館、雑貨屋、塩屋、菓子屋、家畜商などがあった。また、法事や葬式の請負もあったので、高田まで行かなくてもほとんどの用は沢田内で間に合った。旅館には北陸へ行く旅人や行商人が多 [...]