烏江には、庄屋で200年以上も続いた吹原家がある。吹原家は代々勘兵衛(ふきはら かんべえ)を襲名した。吹原勘兵衛は、養老町の烏江湊の舟問屋を勤めた庄屋である。
関ケ原合戦の時、吹原勘兵衛(ふきはら かんべえ)氏が、舟で徳川の退去を手助けした。その恩として家康が関ヶ原合戦の後、舟運の要所であり、最も栄えていた烏江湊を確保するために吹原勘兵衛氏を烏江の庄屋として置き、川の権利を与えたと言われている。
吹原勘兵衛氏は垂井町の南宮大社参道の、北の大鳥居を寄進している。大鳥居は石の鳥居としては県下最大で垂井町の文化財に指定されている。一方、烏江の八幡神社には何も寄進していない。
吹原家は徳川家から杭瀬川の川幅50間程の権利を授かり、船の通行料を得て隆盛していた。烏江に多数の土地を持っていた。
養老町広幡地区の岩道のA氏の家は6代くらい前まで家系図で遡ると、吹原勘兵衛の使用人であったと推測される。姓をもらって烏江から移住したとご祖父からは聞かれている。烏江湊の舟問屋を勤めた吹原家と岩道の吹原家について、詳細は不明である。

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武藤家一族は江戸初期より名字、帯刀を許されていた。墓地には江戸期より先祖代々の墓がある。 吹原家の家臣として、その名が江月に残っている。江月吹原一族にも関係がある。 天明の頃(1781-1788)の武藤源内の墓が江月の共同墓地に有る。 表示位置は吹原勘兵衛屋敷跡を示している。