経済

ヒビ(株)工場(直江613-1)の脇を流れる立出(たてだし)川は湧水が流れる川なので、水質がとてもきれいである。
大坪は基本的に兼業農家で、舟運など水辺に関する仕事や、養蚕業を行っている人がいた。造り酒屋もあった。自作農と小作農は半々だった。米が不作の年には
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昭和20年頃、米軍の飛行機から錫の紙吹雪のようなものが撒かれ、ラジオの電波を妨害した上で照明弾を落として焼夷弾を落としていた。
飯田の八幡神社に爆弾が落ちたことがある。
大垣にでるのが便利になり、持家が増えた昭和30年から40年代にかけて、田んぼを売って家
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2010年現在江月で耕作している土地は約50町歩である。
上江月は漁師か船頭をやっていた人が多く、上江月だけで漁師は5、6軒あった。明治中期頃には宿泊施設として船宿があった。川の真ん中に網棚と呼ばれる櫓(やぐら)を作って魚取りをしていた。昭和20年代には鰻の
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戦後、飯田から通う主な高校には希望する進路により、進学校の大垣北高等学校、実業校では大垣農業高等学校(現、大垣養老高等学校)、大垣工業高校、大垣商業高校があった。
学校の先生の給与は村の財政によって異なっており、飯田が一番安かったといわれている。
相順寺(
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江月には湊はないが土場はあった。そのため、烏江・船附・栗笠の濃州三湊から杭瀬川を通って伊勢湾、桑名、今尾、大垣の舟町湊へと続く水運があり、人物・物資の交流があった。
幕末の頃から舟運が盛んになった。赤坂山の石灰を桑名を経て名古屋へ運んだ。また、桑名や名古屋の
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