タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。

経済 | タギゾウくんの養老ノート | Page 23
ブラウザを認識できませんでした
レイアウトが崩れる可能性があります
(サポート対象:FireFox,Chrome,IE8以降等)

経済

鷲巣の生業

鷲巣(わしのす)の生業は農業が多い。 昔は津屋川の堤防の西側もすべて田んぼであった。現在人が住んでいるような、土地が高くなっている所には田んぼはなかった。 字神屋田(かみやだ)全体と、白山神社の西も田んぼであった。 昔田んぼだった所が、今では畑や雑地にな [...]

鷲巣の湊

鷲巣(わしのす)の湊は、二か所あった。鷲巣の燈明さんの東側と、その一つ北の寺橋の所である。 専明寺南側のA商店は、昔、船で桑名方面と商売をしていた。 津島街道より一本上の道、燈明橋の近くに個人の土場(どば)があった。田を掘り上げて、船が着けるようにしたもの [...]

鷲巣の耕地整理と現地換地

耕地整理前の鷲巣(わしのす)には、椿(つばき)、三反割(さんだんわり)、などという字名があった。昭和36(1961)年から昭和39(1964)年頃の耕地整理後は苗代(なわしろ)、石ノ割、八間屋などという字名になった。また、白山神社の東側にあたる土地で、北から一 [...]

養老公園

養老公園は、今と昔ではすっかり様子が変わった。 今子どもの国がある所は、江戸時代には御林(おんばやし)と呼ばれた松林であった。元は白石村が管理をしていた。 昭和の初め頃、白石村から大跡村と飯ノ木村が一時的に松林の入会権を取得し、松林を管理していた時期がある [...]

鷲巣の生活と住民

昭和10年代、焚物は藁を燃やしていた。または芝を刈って、燃料にしていた。芝を刈るために土地を借りていたり、山がある人は、自分の山で芝を刈った。 A氏が持っている鬼面山谷五郎の資料では、文久元年(1861)、鬼面山が関脇の頃に帰って来ている。その時、鷲巣(わし [...]