昭和10年代、焚物は藁を燃やしていた。または芝を刈って、燃料にしていた。芝を刈るために土地を借りていたり、山がある人は、自分の山で芝を刈った。
A氏が持っている鬼面山谷五郎の資料では、文久元年(1861)、鬼面山が関脇の頃に帰って来ている。その時、鷲巣(わしのす)の住民は水害で困窮していたため、鬼面山が十両を配った、ということを記帳した古文書がある。それ以上前のことは分からない。3~6世代前の話である。
鷲巣出身の鬼面山は、勝負するのに仕掛けていかないのは、相撲ではないと言っているが、基本的に鷲巣の人の気質は、何事も前向きに取り組むが、人と対立するようなことはしない。人が良い人が多いのではないだろうか。輪中で暮らす人の輪中根性のようなものは、この集落にはないと思う。
今も鷲巣に残っている古い建物はない。くずや(藁屋根)や、トタンを被せた家もない。B氏の家も昭和35(1960)年頃まではくずやだった。

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鬼面山谷五郎生誕之地碑が鷲巣地区字稲葉地内に建っている。 また、養老公園にも鬼面山の記念碑がある。これは、鬼面山とその父親が養老寺の酒造りの手伝いに行っていたと言われているためである。(鬼面山谷五郎生誕之地碑の裏面に記載あり) 白山神社の境内には鬼面山が寄進した、文久元年(1861)建立の燈明がある。表示位置は鷲巣の中心あたりを示している。