経済

養老小学校を良くするために、衛生面では各階に手洗いをつけた。また、暗いと子どもの姿勢が悪くなるため、照明を配慮し、窓際と廊下側で明るさが変わらないようにした。
半田登喜代氏は、どこの学校へ行ってもトイレを見るので「便所会長」と呼ばれていた。養老小学校のトイレ
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高田では昔大火事があった。古い木造家屋が残っていないのも、火事が大きな原因であると思う。
また、水害もあった。昔から住んでいる人は、徐々に高低差の高い西へと移住してきている。見た目には大して変わりがないようだが、大水が出た時、玉泉堂の辺りまで水がついたが、高
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大正12年(1923)7月、田中義一氏を代表とする当時の高田青年団が『高田町史』という、高田出身の人物の歴史を書いた本を作った。
田中義一氏は精力的に色々な有志の会を開いていた。その位、高田にゆとりがあったのであろう。昭和の始めの頃にはもうそういった有志の会
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戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間
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A氏は、昭和29年(1954)に「ひらけゆく郷土」という本を作った。社会科の副読本として、各学校へ15冊位ずつ配った。当時まだ養老町の図書館はなかったので町の図書館には置いていない。
その時の写真は、自分で撮影に行き、現像もすべて自分でやった。
原板は残っ
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