こおり柳の皮を子供に剥かせて一束何銭かで梱包材として使用するために買い取ってもらっていた。
冬期はわら細工により収入を得ていた。
小豆はかつて米より価格が高く、農家の副業として泥川堤防に植えていた。
室原には生糸市場もあった。
政府が強制的に米を買い上げる供米制度では、室原と栗原の収穫量に相違があり、室原のほうが評価が高かった。

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室原地区字住吉に首塚といわれる所があった。行き倒れた侍が埋葬されていたが、土地改良の時に供養して移動された。

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室原は滋賀県江州(ごうしゅう)、滋賀県米原、垂井町などとの関わりが強かったため、それらの土地の文化として文楽や車山が入ってきている。
特に室原文楽に関しては、近江からの薬売りが室原文楽の発祥ではないか(人寄せの為に芸を披露していた)という説と、土佐の薬売りが室原で病気になり村に留まり、お礼に文楽を広めたという説がある。栗原(現垂井町)に土佐の薬売りが留まっていた時期もあり、栗原にも浄瑠璃への関心が高まったと思われる。
室原文楽は元は男性が主として携わっており、文楽のメンバーは子供歌舞伎の世話にも携わっていた。文楽の練習は個人で行っていた様子である。人形使いの名手、青木久蔵(あおき きゅうぞう)氏の女形が印象的だった。
文楽の興業の際は、現在のものよりも小さな舞台をリヤカーに積み、多良街道を利用して、大垣市上石津町一之瀬、不破郡垂井町梅谷などへ出向いた。文楽は余興で上演されることが多く、興業のお礼として糸代(三味線方への寸志)や食事が振る舞われた。
室原では明治42年(1909)頃東光寺に在住していた田中けい氏が浄瑠璃の語りを教えたり、他にも長浜から師匠を招き文楽の上達に励んだ。浄瑠璃をたしなむ人が10人ほどおり、報恩講の夜のお勤め後に浄瑠璃が披露された。
大垣市歴史民俗資料館(大垣市青野町)に室原文楽で使われる人形と似たものが保存されており、一時期この人形が室原に移されていたこともある。

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大正年間(1912-1926)に栗原(現垂井)に農民一揆が起こり、小崎県令が当時の有力者である鈴木治左衛門氏に相談し、鈴木氏は栗原の仲裁役を果たした。栗原にはその時の2m位の農民一揆の碑があり、当時の様子が記されている。

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室原では水利や防災、買い物等の生活は垂井町よりも、高田方面との関わりが強かった。
福源寺に表佐(おさ)の医者、多和田氏が週2回ほど出張してきていたが、入院治療をする時には高田の山口さん(現、山口内科外科)にかかった。
瀬古の団結心は強かったが、瀬古同士の対抗心も強かった。
室原は関西の生活習慣が混ざっている。仕事や婚姻など、関西方面との交流が多かった為か、関西弁が混じるお年寄りもいる。
室原のような120~150戸の大きな田舎集落は珍しい。この辺りの水問題により結束を強めてきたという背景のためではないかと推測している。
室原は大垣から米業者の出入りが多かったなど大垣との繋がりが深く、平成15年頃に大垣市との合併の話が出た際も抵抗はなかった。
室原への産婆さんは栗原(不破郡垂井町)からよんでいた。
栗原山は栗原地区が総持ちをしていた。そのため、持ち山を持たない室原よりも栗原の方が経済力が上だった。

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