昭和10年代に小倉谷が切れて、大量の土砂により県道225号線が遮断された。小倉谷が切れたのはその時だけで、伊勢湾台風の時も切れなかった。
伊勢湾台風の数年後の台風で小倉山の杉や檜が倒れた。
小倉谷津屋川とぶつかる辺りから50m南に有尾が管理する津屋川からの用水の取水口がある。取水口部分の近くは暗渠になっている。この用水を使って田地区にも水を引き、苗代を作るときなどに水をもらっていた。
小倉隧道(天井川の下を道路を通すために掘られたトンネル)ができた時期は不明である。

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津屋川に2つある横屋の樋管のうち1つは、江戸時代からあり、現代も使われている。水利権も江戸時代に獲得し、現在も有効である。換え取りと呼ばれる足踏みの水車で苗代に水を入れた。
田の五軒屋で堤防が決壊し、村民は高地へ上がっていった。田地区のあたりの堤防は村内で何度か決壊している。
横屋で湧く水は鉄分が多く、水が茶色で、飲料水には適さない。

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田の東側に堤防が湾曲している所があるが、それは堤防が決壊した後で再度築堤する時に、少しでも地面が高くなっていた場所を使って堤防を作るようにしたためである。
田の南に田地区、有尾地区、横屋地区の三地区専用の排水樋管がそれぞれやや離れた場所にある。このあたりの地区は標高が約10cmと低いため、排水は飯ノ木・大跡部落から約7km旧十三ヶ村排水路を流れ、海津市駒野新田地内で津屋川にポンプ排水しているが、この中流域左岸の下池東部に二段排水地区がある。
田地区の水田の用水は満潮時に樋門を開けると地区の半分ぐらいの面積を満たすことができる。津屋川からの逆水のため、一部の水田ではパイプラインを使用している。
田地区の池が1面あったが、昭和元年に排水機を取り付け、昭和10年に2回に分けて、最初は210ha、次に残りの52haが埋め立てられた。細かい数値についての資料は残っておらず伝承のみ伝わっている。この池については田と有尾が裁判になり、笠松・大阪で裁判を行って最終的に和解した。
田地区を囲む輪中の築堤年代は1650年頃で、有尾輪中堤が正式名称だと思うが、輪中文書には出てこない。田地区では三郷輪中堤(さんごうわじゅうてい)と呼んでいる。なお、三郷とは田、有尾、横尾の3地区を指す。

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一色の行事は元旦、春祭り、田植え祭り、秋葉さん、燈明祭り、本祭りなどである。本祭りは10月の第2日曜日に行うが、参加者は多くなく、総代と宮当番くらいである。祭りでは下笠の宮司に祝詞をあげてもらう。

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一色では班で地蔵盆を執り行っている。地蔵堂をお守されているのは近隣の10軒である。地蔵盆の参加者の話では昭和初期には今と同じ場所に、すでにお地蔵さんが祀られていたようだが、それ以前のことやお地蔵さんの由緒については不明である。
以前はA氏が一人で守をされていた。現在地蔵堂が面している道路はおよそ1980年頃には舗装されておらず、砂利道だった。路面は現状から1mほど低く、地蔵堂もその高さにあった。地蔵堂の西を走る近鉄の踏切の高さは変わっておらず、砂利道の当時は地蔵堂から踏切までの5mくらいが急な上り坂になっていた。その後、道路が舗装されるに伴い嵩上げされ、地蔵堂も現在の高さになった。
地蔵堂の4隅に直径1cmほどの穴が開けられており、以前はそこに棒を立てて地蔵堂の周囲に10数個の提灯を吊るして囲むようになっていた。水道工事の関係で地蔵堂の土台の一角を削られてしまったため、今はお堂の前に4張りの提灯を灯すだけになった。
昔から8月24日に地蔵盆を執り行ってきて、法要を西林寺の住職にお願いしている。今回は都合がつかなかったため浄徳寺の住職にお願いした。地蔵盆の法要自体は15分程度で終了し、その後は地蔵盆の参加者が軽い酒宴を行う。現在は地域に若い人がほとんど残っていないが、平成当初には子どもたちが多く参加していて、お菓子を配ったりしていた。2011年現在、一色地区で地蔵盆をやっている場所はここだけである。

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