田の東側に堤防が湾曲している所があるが、それは堤防が決壊した後で再度築堤する時に、少しでも地面が高くなっていた場所を使って堤防を作るようにしたためである。
田の南に田地区、有尾地区、横屋地区の三地区専用の排水樋管がそれぞれやや離れた場所にある。このあたりの地区は標高が約10cmと低いため、排水は飯ノ木・大跡部落から約7km旧十三ヶ村排水路を流れ、海津市駒野新田地内で津屋川にポンプ排水しているが、この中流域左岸の下池東部に二段排水地区がある。
田地区の水田の用水は満潮時に樋門を開けると地区の半分ぐらいの面積を満たすことができる。津屋川からの逆水のため、一部の水田ではパイプラインを使用している。
田地区の池が1面あったが、昭和元年に排水機を取り付け、昭和10年に2回に分けて、最初は210ha、次に残りの52haが埋め立てられた。細かい数値についての資料は残っておらず伝承のみ伝わっている。この池については田と有尾が裁判になり、笠松・大阪で裁判を行って最終的に和解した。
田地区を囲む輪中の築堤年代は1650年頃で、有尾輪中堤が正式名称だと思うが、輪中文書には出てこない。田地区では三郷輪中堤(さんごうわじゅうてい)と呼んでいる。なお、三郷とは田、有尾、横尾の3地区を指す。
表示位置は有尾輪中に旧十三ヶ村排水路より切れ込んだ時の位置を示している。