大坪村庄屋であった日比朝右エ門氏の一族が代々祀る住吉神社が大坪字田中にある。社の修復をするために、一度ご神体を夕方から夜にかけて移動し、修復完了後に戻した。夕方から夜に作業をしたのは、昔からご神体は見るものではないといわれていたからである。
10月の第1日曜日に日比一族でお参りをする。いつから始まったものかは分からない。お供えも、最近は魚のかわりにスルメにするなど簡略化している。櫃(ひつ)に神事に必要な道具が一式入っているのでお宮に持って行ってお供えして先祖を祀る。
飯田と飯積では、小畑川をはさんで子供同士の仲は悪く、飯田の子は燈明の少し深みのある川で遊び、飯積の子は小畑川の圦から見える所で別々に遊んでいた。
西脇光次郎氏は金屋の大地主で、かなりの力を持っていたが、牧田川の改修工事で傾いてしまった。江戸時代の幕府領の庄屋は自普請で改修工事を行わなくてはならなかったためである。
金屋は細長く、向野までつながっていた。
金屋・直江・飯積の三村それぞれが飯積輪中の水を小畑川に流すための樋管を持っており、三ケ村樋管と呼ばれていた。2010年現在も大垣養老高校(祖父江向野1418-4)の西側に存在する。
金屋は、金屋燈明の所から樋管を通して、牧田川に水を流していた。
また、金屋は、名神高速道路の北側の浄土川から小畑川に、樋管を通して流していた。樋管の位置は、養老北カントリーエレベーター(宇田1191)の南側である。
金屋は水に一回浸かると一週間程は水が引かなかった。
昭和19年の干ばつのときに、神主を呼んで雨乞い神事をして御井神社にこもった。その時井戸を掘ったが、3mは砂利、その下の4m程度が粘土層で、水が流れている音はしたが井戸から水は出なかった。
農業協同組合は、昭和20年に民営化されたが、それまでの農業会時代は国家公務員だった。全国農業協同組合中央会については今も人件費のみ国が支払っている。
信用農業協同組合連合会(信連)は農業会時代からあるが、その頃は米の統制が主で、金融業務はあまり行われていなかった。
県信連や経済農業協同組合連合会、全国共済農業協同組合連合会を始めほとんどの組織が全国統一されており、岐阜は支部といった形になっている。
農業協同組合ができたのは日露戦争以降の食糧供出のための国策による。
昭和41年(1966)に日吉・小畑・多芸東部・室原・高田・広幡・養老・上多度の8農協が合併し養老町農協ができ、昭和51年(1976)にその時に加わらなかった笠郷と池辺を吸収、新養老町農協となった。その後、平成4年に上石津を吸収し養老郡農協となり、平成11年に、西美濃農協を形成している。国指導の「飛騨・岐阜・中濃・西濃・東濃」の岐阜県五農協構想に基づく政策だが、西濃地区は「揖斐と西美濃」に、東濃地区は「めぐみと東美濃」にわかれている。
農協では前日の残金を封筒に入れ封をしたものを翌日まで保管しておく規則になっており、封を切ったものと帳簿との金額が一致しない時には徹底的に調べさせた。