段海村には淡海城(だんかいじょう)という城があった。城主は織田信長が西美濃から大垣を攻める大垣城攻略のために派遣した、尾張津島神社の神官の次男、祖父江国舎(そぶえくにのり)である。津島神社の神官は昔から現在に至るまで祖父江という姓を名乗っている。
戦国時代は地形を利用して築城した。墨俣築城の3年前には既に段海城は河川の利を取り入れて、信長の家臣の祖父江氏が段海城を築き、美濃攻略の前線とした。
段海周辺は川が網の目のように走っており、その中に砦のようなものを建てたのが淡海城であると思われる。また、伝承による地名として城屋敷という字名も残っている。その後秀吉が美濃を平定し、信長は京に上って本能寺の変で自刃した。その際の信長の武将の名簿の中にも祖父江姓の武将が何人もいた。祖父江国舎の子供が戻ってきて、祖父江に国舎の御霊を弔うために菩提所を作り、それが祖父江八幡神社の前身となった。墓石の代わりに植えた松の大木が1900年頃まであった。

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段海村には淡海城(だんかいじょう)という城があった。城主は織田信長が西美濃から大垣を攻める大垣城攻略のために派遣した、尾張津島神社の神官の次男、祖父江国舎(そぶえくにのり)である。津島神社の神官は昔から現在に至るまで祖父江という姓を名乗っている。
祖父江国舎(くにのり)、祖父江国之(くにゆき)、祖父江国成(くになり)が織田信長に仕えていた。
戦国時代は地形を利用して築城した。墨俣築城の3年前には既に段海城は河川の利を取り入れて、信長の家臣の祖父江氏が段海城を築き、美濃攻略の前線とした。
段海周辺は川が網の目のように走っており、その中に砦のようなものを建てたのが淡海城であると思われる。また、伝承による地名として城屋敷という字名も残っている。その後秀吉が美濃を平定し、信長は京に上って本能寺の変で自刃した。その際の信長の武将の名簿の中にも祖父江姓の武将が何人もいた。祖父江国舎の子供が戻ってきて、祖父江に国舎の御霊を弔うために菩提所を作り、それが祖父江八幡神社の前身となった。墓石の代わりに植えた松の大木が1900年頃まであった。

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室町時代(1429-1441)に多芸郡内の16箇村の庄屋や地主が30年に亘って懸仏を寄進した。現在懸仏は多岐神社に保管されている。
郡史p.502、町史p.412によれば、永享8年(1436)に多芸郡渋江郷源之定政(みなもとの さだまさ)氏が寄進したという墨書が懸仏の裏面にあり、その渋江が現在の祖父江にあたるとのことである。
養老町史・史料編下(p.117)によれば、火縄銃の火薬を湿らせないようにする為に柿の渋が使われていたこと、渋江という地名があったことから、防水に使われる柿の渋を集積する所があったのではないかと推測している。なお、渋江は現在の祖父江にあたる。
また、正倉院文書の中に「ミノクニソフエ」と書かれた荷札が発見されている。

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祖父江に条里制の名残を思わせる一之坪という字名と、水田の用水を引く所という意味を持つ掛(かけひ)という字名や、井領(いりょう)という字名がある。井領という字名は室原、不破郡表佐(おさ)にもある。垂井町の南宮大社の荘園が井領と呼ばれており、祖父江の辺り一帯まで荘園が伸びてきていた事が考えられる。中世から江戸にかけて、農業においても政治的戦略においても重要な土地だったことが分かる。

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戦前に土地改良のために昭和19年から20年頃に農兵隊が来て作業にあたっていた。食糧増産のための国策として、飯積輪中内の池や沼を向野地内の畑土で埋め立て、農地の造成を行っていたものである。農兵隊は飯積や直江の寺に泊まっていた。
農兵隊は14~15歳くらいの少年たちであった。現在も生存者が3~4名(2010年現在79~80歳の人で)地元地区にいる。
作業はトロッコを使って行っており、上江月の人がトロッコの機関車を運転していた。

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