以前の正式名称は多芸郡金屋村太夫田(たゆうだ)だったが、合併により養老郡養老町金屋太夫田になった。金屋という地名が行政資料に現れるのは明治6年(1873)に記録された資料が最初だが、関ヶ原合戦時の合戦上の一つとして金屋川原の戦があることから、地名としてはかなりさかのぼることができると考えられる。
金屋は、西・中・下の各班に分かれていたが、行事などを運営しやすいように住民が随意に分けたと思われる。金屋や直江、飯積が細長くなったのは、土地の高い所から開発していき、悪水の排水を大河川へと落とす事を考え、西から東へと細長く集落が形成されていったのであろう。
金屋には応永2年(1417)築城の金屋城があった。城主は伊藤氏であった。場所は不明である。
金屋は現在150戸ほどあるが、農業に携わる旧戸としては40戸足らずである。
金屋は天領だったため、年貢が高かった。幕府に対する年貢には、差し米という制度があり、1俵ごとに約1割を足して差し出さなければならなかったためである。
金屋周辺の名神工事の時の出土品は国交省が持っている可能性があるが、現在ほど出土物や遺構の管理に関して厳しくなかった。
金屋で蚕を飼っていた時に、向野の辺りまで桑を取りに行った。
江戸時代には金屋は天領であったが、一部は入会地として村で総有した。入会地が金屋のどの辺りにあったかは不明である。
金屋には浄土真宗の寺がないため、大部分の人が、他の地区の寺の門徒となった。
直江に2反(約1,983 ㎡)ほどの縄の内という地名があり、島田地区の飛地である。
江戸時代には直江の人々が水がつくのを避けて南から北に移り始めていた。杉野家では元々土地が高く整備されていたため移住はせず、南直江には地主4軒のみが残った。村はもとは全部南直江にあったが、水害の為に牧田川の北岸に移る人が多く、南を本郷、北を新屋敷といった。
春日神社は北直江に遷座されたが地主の杉野家は南直江に残った。
なぜ直江だけが、幕領から外れて大垣藩預所になったかの経緯は直江文書に記載されていると思うとのこと。
中世には寺社と鋳物師や鍛冶師が集まった工業都市であった直江・金屋は住みやすい場所であったと考えられている。牧田川も慶安3年(1650)の大水で牧田川が村を東西に横切って流れこむまでは直江の南側を流れていた。2010年現在は東川原や枯木(かれき)といった地域が全て牧田川の中になってる。
直江は、中組・本郷組・西組に分かれる。いつ頃から別れたのかは不明である。
早崎誠氏宅(直江469)の門は昭和22年(1947)に石畑の山幡氏から譲り受けたものである。
直江の土蔵は堤防と同じ高さに石を積んである。
御井神社跡碑文の北、名神高速道路の高架下を通るトンネルのあたりに、馬に乗って池に入って行った人が出てこられなくなったという伝承が残るほど深い池があった。この池は昭和37年の土地改良と名神高速工事のために埋められたが、約500㎡の広さがあった。
金屋と安久や直江などとの行政界が入り組んでいるのは、昔の水路で行政界が区切られているためである。
牧田川を改修する前は、毎年水害にあっていた。金屋・直江対飯積で水をめぐって争いがあった。飯積は土地が低く、飯積の水を直江より先に落とす為に定杭を立てたのではないか。
古代は津屋川に牧田川が流れていた。牧田川は伏流水の為、年の半分は水が流れていなかった。
飯積の村へは村西の小畑川の圦(ゆり)から水田の用水として取水していた。
終戦前、昭和18~20年頃に農兵隊が飯積の池を字向野の辺りの土で埋めた。
飯積と直江の境にある小畑川の左岸堤に5本の定杭が点々と埋められていた。定杭が5本あった理由は不明である。直江の庄屋、杉野休三郎は飯積の庄屋、川瀬五左衛門(かわせござえもん)よりも力があったため、直江の屋敷の高さに合わせて定杭の高さが決められた。
飯積村は幕府領であったため、尾張藩領の飯田よりも力を持っていた。飯積と飯田の境の小畑川堤防は飯積側の方が約30cm高くすると決められていたため、飯田は年々水害に苦しみ、堤をなおすために土を取った跡が多くの池となっていた。今現在も所々に池が残っている。
飯積輪中の北側に古いものと思われる除(よげ)があった。また、明治17年の字絵図には飯積輪中の中を走る小川が金屋と飯積と直江の境界になっていると示されていたらしい。また、その小川に対して直角に走る横除があった。2010年現在は両除とも土地改良工事で取り壊され、存在しない。横除は金屋地内字平塚付近にあった。