池辺小学校は伊勢湾台風の前の昭和29年11月に学校を建て直し町村合併により養老町立池辺小学校と改称した。25,6年前にも移転して、2010年現在は体育館のみが残っており、空手などを教える場として利用されている。
古い池辺小学校の鬼瓦は大巻の集会所に残っているとのことであったが、調査では確認できなかった。。
昭和18,19年頃に岐阜師範から地方教育実習で実習生5人が来た時に農繁期休暇にあたってしまっていた。その時、下呂出身の田中テイイチロウ氏(漢字不明)が学校に頼んだり、村中駆け回って学校を再開されたことがある。
鬼頭家の子孫が医者をしていたが、子どもに恵まれなかったことから、屋敷の維持管理が難しくなった。小出氏の先祖が多額の借金をして購入したが、それでも一度に購入することは難しいため、分筆をしてもらいながら購入した。
小出氏の父親は鬼頭家の墓所にも注目を集めたいと思い、墓所まで行く道の整備を試みたが上手くいかず、2010年現在も舗装もされていないあぜ道を歩いていく必要がある。
鹿児島の関ヶ原踏破隊は毎年天照寺にも訪れる。昭和40年代頃は別の所であらかじめ用意していた食事を、小出千春氏の屋敷内で取っていた。
大巻薩摩役館跡の世話をしている小出家には宝暦治水の頃から残るものとして勝手口の井戸と屋敷の高さが挙げられる。井戸は現在でも水が湧いていて、深さ約7m、水位は約2mある。内部の壁面には背板といわれる木の板が打ち込んであり、そこから水が染み湧き出てきている。
薩摩義士の使っていた井戸が小出氏宅にある。
釜段では葬式の際、鍋で出汁をとり、とろろ昆布と胡椒をたくさん入れて炊いた「こしょう汁」を飲む。胡椒の辛味で涙を流す為や、気分ををすっきりさせる為など諸説ある。海津市平田町の方でも葬式の際に出され、薩摩のほうでも葬式で飲むという話を聞いたことがあるので、薩摩義士がこちらに持ち込んだのではないかと考えている。
大場のA氏の家は、3~4代前まで魚の卸しをしていた。小作に金を貸した台帳や明治33年の木曽三川分流改修工事の竣工式の寄付を募った文書や魚屋丸七時代の金銭出入金などの資料がある。3~4代前は滋賀県の方へも魚を卸しており、かなり大きな取引をしていたらしい。それによって財を成し、全盛期には農地を27町ほど持っていた。
A氏の家の裏には池があり、大きなドッペと呼ばれる、獲った魚を活かしておくための生簀(いけす)として使われたザル状の民具がごろごろしていた。家の門は、平田靫負が切腹した大巻の庄屋、鬼頭兵内の屋敷の役館の門だと聞いている。
大場では農地解放で没落してしまった人もいるが、大地主ではなく教師等をやっていた家は続いている。
大場の八幡神社所有の土地は5町5反ほどある。1500年代の岡田左馬助(おかだ さまのすけ)のお墓が八幡神社の近くにあり、その辺りに大葉城もあったのではないかと推測しているが、正確な場所は不明である。大場には一人だけ岡田家の家来が残り、岡田姓が残っている。
小坪のA氏は小学校4年生まで、駒野文教場に通った。