養老町養老にはマス釣り場がある。未調査のため、詳細は不明である。

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養老焼の最も古いものは幕末に遡る。養老焼の祖は大橋秋二(おおはし しゅうじ)氏という人物で、自身の還暦祝いとして野菊の紋と養老焼の印が入った茶碗を60個焼いたとのことである。
また、明治35年頃に養老郡牧田村(現上石津町牧田地内)の大工が名古屋に出稼ぎに行き、焼き物に関心を持った。始めは牧田村字門前、数年後に牧田村上野宮ケ谷地内に陶土を発見して仲間とともに養老焼として売りだした。数年後、職人の一人伊藤国太郎(いとう くにたろう)が単独で養老焼を引継ぎ、養老駅前に窯を移して大正中期まで続けた後に廃業した。
一方で明治25年前後、養老公園の開園から10年ほど経った頃に名古屋在住であった伊藤素心(いとう そしん)氏が養老に移住し、茶店を開いた。その際に「素心」の印を押した器を使用しており、素心焼きと言われている。素心庵は2、3代ほど続き、最後は飴谷姓の人が受け継いだが、平成20年頃に閉店した。
伊藤素心と伊藤国太郎と同姓ではあるが、血縁関係については不明である。
素心焼きの影響を受けた可能性のある者として、佐野周(さの しゅう)、山田てつ(吉吉で一文字)らがいる。いずれも大正から昭和にかけて陶芸活動に携わっていた。

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養老町養老の勢至には 養老山麓の中でも最大級の一つに数えられるイチョウがある。 根元には牛糞の肥料が敷かれ、大切に守られており毎年沢山の銀杏をつける。

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久々美雄彦(くくみおひこ)神社は、現在は祭神を三柱祀るが、元々は四柱だった。何神様だったかは忘れたが、一柱は大垣市上石津町乙坂の神社に譲った。総代は年に数回の当番仕事がある位で特に権威がある訳ではない。
久々美雄彦神社の祭りでは、昭和7,8年頃は親戚をよんで肉の引きずりや松茸のごちそうをした。肉の引きずりとは、馬肉とネギを醤油と砂糖で炊いたものである。松茸は祭りの少し前になると自転車で一之瀬や牧田(大垣市上石津町)の里人が売りに来た。
鳥居の笠木の上に石を投げて乗ったら縁起がいいということで、石を投げて遊んだ。お祭りでは屋台も出て、綿菓子を買って食べた覚えがある。
久々美雄彦(くくみおひこ)神社のいわれについて、「養老むかし話(玉泉堂酒造株式会社発行)」で紹介されている話がある。昔久々美雄彦神社は平地にあったが、殿様がその前を通りかかると、必ず馬から落ちた。不思議に思っていると神様が夢に現れて自分を上の方へ連れて行ってくれれば落ちないようにする、と言われたので山の中腹の現在位置に祀られた、というものだが、神社が元々存在した場所は不明である。
今は沢田の住民が回り持ちで草取りなどをし、神事については本郷、上町(かみまち)、下町(したまち)の3部落から2名ずつ総代を選出して世話をしている。
神社の神事の時には花火を奉納していた。古くは天明5年(1785)の「御神事当番組合帳」に花火連中の記録がある。花火の種類とスポンサーらしき人物の名前が記録され、日比家の名前が多数見られる。
いつまでこの神事を行っていたかは不明だが、日比家文書の中には明治4年の「沢田村花火年々分附覚帳」が残っていたので、明治期までは神事の際に花火が打ち上げられていたと考えている。
桜井村には花火製造の器具が残っている。花火に使った火薬の調達先は不明である。
日比家文書によれば、大正3年(1914)には久々美雄彦神社に神輿があり、神輿の人夫賃として2円20銭を払っている。
2010年現在80代男性の記憶の限りでは久々美雄彦神社の神輿は見たことがないとのことである。
昭和20年代から30年代くらいまでは久々美雄彦神社の行事も盛大に行っていたが、年々参加者が役員などの関係者のみに限られてきつつある。
久々美雄彦神社で曜日に関わらず10月8日に神事を行うのは昔から変わっていない。
神社の行事としては、元旦の神事、3月の春祭り、10月の神事、11月の新嘗祭などがある。
久々美雄彦神社付近には昔奨励金をもらって沢田の住民が開墾した田が30数枚あった。昭和20~30年頃まで続いたが、後に土地を売ってしまい、木が植えられた。
沢田久々美雄彦神社の例祭は例年10月8日に行う。
朝の9:00から神事が始まる。祝詞を上げ、氏子が手渡しでお供えを上げる。続いて氏子総代による参拝、お供えの分配をする。
10:00から例祭の役員による直会を行う。
久々美雄彦神社では、1月、3月、10月、11月に神事を行う。内今回の10月のみ高田の田代神社より神官さんを2人お呼びする。
1月は門松、10月は豊年祭りで十二灯(三角形の組み木に12張の行灯を下げた物)を立てる。3月と11月は何も出さない。
昔から曜日に関わらず10月8日を沢田祭りと定めて行っていた。昔は親戚を呼んで料理をふるまい、各戸に提灯や旗を立てたり、昭和57、58年ころには子ども会で作った神輿を担いで沢田町内を練り歩いたが、最近は神事のみとなった。
上・下・本郷で総代が各3名ずつ、4年任期で務める。氏子は百数十軒だが、高齢化で年々氏子が減少している。
養老町史によれば久々美雄彦神社に伝わる古文書(1646年)、本社建替大工神文(1738)に関する記載があるが、既に紛失してしまっているかもしれない。

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沢田の日比家には5000点に及ぶ古文書が残っており、日比達男氏が名古屋大学に寄贈した。その整理・研究の結果の一部は2006年度に名古屋大学付属図書館が行った秋季特別展「江戸時代の村と地域 -美濃養老・日比家文書にみる暮らしと災害- 」にて発表された。図録もPDF化されている。
江戸時代の沢田村は、幕府領の為に領主は笠松代官であった。年貢米は笠松代官所に納めた。
江戸時代の庄屋は反当たり6俵の収穫があると4俵は年貢米として納め、残り2俵が百姓の取り分であったので生活は困窮していた。百姓と地主は4分6分(百姓4、地主6)であった。

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