京ヶ脇は白石が本元である。住所も白石村字京ヶ脇となっていた。
妙見堂のあたりに屋敷があった。昭和20年代に柱の跡のようなものが残っていたのを覚えている。
養老公園の妙見堂上り口と渡月橋右岸に妙見山(妙見堂を指す)と書かれた道標がある。
京ヶ脇の稲荷神社の裏に円墳があり、そこで下呂石が発見された。
京ヶ脇の集落は山の麓からは見えず、水もあり風も穏やかで、米は集落で60俵ほど取れることから古来から人が住み着いていたのではないかと思う。
昭和30~40年代は京ヶ脇では農家が17軒程あり、ほとんどの家で農耕用の牛が飼われていた。鷲巣で稲作を行っており、牛は運搬だけでなく、田を耕すのに使われた。養蚕も盛んであり、長期間行われていたが、出稼ぎに出る者もいた。桑畑跡は残っていない。林業は行われていなかったが、燃料になる柴は作っていた。子供も農業の手伝いをしていた。伊勢湾台風以降、耕運機などの農機具などが普及した。
京ヶ脇の戸数は25軒、別荘が5軒ある。
昔は京ヶ脇が所有する山があり、神社の名義で維持管理されていた。
直江谷は京ヶ脇が管理していたが、年貢米が高い為、直江に譲渡したという古老の話がある。
京ヶ脇では部落で年行司を決め、寺と神社の世話をする。年行司は1年交代である。
神社に飾られる門松の松は、昔は山で調達してきたが、最近では松の木がなくなってきたため、土地を借りて松を栽培している。
京ヶ脇に直接戦争の被害はなかったが、大垣空襲の様子が見えた。
京ヶ脇という地名は、京都や都という概念からつけられたものではない。石畑にある寺(浄誓寺か)の奈良時代の文献にはひらがなで「きょうがわきひこひち」と書かれているものがあった。秣の滝は、都から一万人の大部隊がこちらにやってきた時に、滝のあたりで馬に草を食べさせたと言われているが、地形を考えると無理ではないかと考えている。
京ヶ脇には嘘谷という谷があり、聖武天皇の頃(724?749年)に課税を免れる為にこの谷があることを申請しなかったことから嘘谷とつけられた。また、この時に申請をしなかったがために養老の中心は京ヶ脇ではなく、滝谷の申請がされていた養老公園のほうに設定されたのではないかと思う。
白石に山田貞策翁が福島県越前から開拓者を入植させたことから通称越前と称されるようになった場所があった。耕地整理により、現在は越前と称される集落はない。
越前のことを、地元の人は「山田田」と言っている。
明徳地区の踏切の脇には地蔵堂があるが、電車にはねられて亡くなった方の弔いのために、明徳地区で建てたものである。年一回、経をあげ供養をしている。県道南濃関ケ原線の拡幅に伴い、線路の東側に移動された。
若宮神社(石畑)の祭神は応神天皇、比咩神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)である。永禄8年(1565)に石畑の庄屋であった山幡五郎右衛門(やまはたごろうえもん)により勧請された。
若宮神社は、同じ石畑内にある大桑神社より古い歴史を持っている。
若宮神社の祠は昭和27年に建て替えられている。敷地が広くないため、鳥居はなくのぼりは立てない。神社所有の神撰田があった。神撰田の広さは約1678㎡ある。神社には大きな椋(むく)の木が植わっていたが、昭和後半に無くなっている。
若宮神社の当番は以前は2軒1組だったものが、4軒1組になったことにより、約5年に1度回ってきていたものが、約3年に1度回ってくるようになった。
4月の第2日曜日に若宮神社の祭祀を執り行っている。昔は年4回行っていたが、2010年現在は年1回になった。最初に当番の家に集まり、そこに置いてある、昔の婚礼道具を入れるような大きな長持に、掛け行燈が20個、お供え物を載せる台が二脚、幕や紅提灯などの祭典用の道具を入れて拝殿まで運ぶ。長持だけでもかなり重い。
石畑の若宮神社の祠の中には、寛延2年(1749)の年号の入った木槌が残されている。また、寛延2年(1749)頃より同神社は山幡一族の氏神となった。宝暦9年(1759)の年号が入った若宮神社の由緒や規模を伝える資料では「山幡」の名字が「山畑」になっている。