烏江小学校が高田小学校へ合併された時の条件として、烏江から高田小へ通う生徒には3年ほどは定期が支給された。A氏は電車で烏江から高田小学校に通っていた。
烏江の明倫(めいりん)小学校は、明治10年に烏江村の善正寺に創立された。明治22年に明倫小学校から烏江尋常小学校と改称した。
昭和10年代、明倫小学校へは大坪から三宅開次郎(みやけ かいじろう)先生が来ていた。また、明倫小学校には大垣市の高渕からも生徒が来ていた。
不破郡と養老郡の学校は高等3年まであったが、早期に就職を希望する者は2年で卒業した。

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烏江には、庄屋で200年以上も続いた吹原家がある。吹原家は代々勘兵衛(ふきはら かんべえ)を襲名した。吹原勘兵衛は、養老町の烏江湊の舟問屋を勤めた庄屋である。
関ケ原合戦の時、吹原勘兵衛(ふきはら かんべえ)氏が、舟で徳川の退去を手助けした。その恩として家康が関ヶ原合戦の後、舟運の要所であり、最も栄えていた烏江湊を確保するために吹原勘兵衛氏を烏江の庄屋として置き、川の権利を与えたと言われている。
吹原勘兵衛氏は垂井町の南宮大社参道の、北の大鳥居を寄進している。大鳥居は石の鳥居としては県下最大で垂井町の文化財に指定されている。一方、烏江の八幡神社には何も寄進していない。
吹原家は徳川家から杭瀬川の川幅50間程の権利を授かり、船の通行料を得て隆盛していた。烏江に多数の土地を持っていた。
養老町広幡地区の岩道のA氏の家は6代くらい前まで家系図で遡ると、吹原勘兵衛の使用人であったと推測される。姓をもらって烏江から移住したとご祖父からは聞かれている。烏江湊の舟問屋を勤めた吹原家と岩道の吹原家について、詳細は不明である。

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杭瀬川と牧田川の合流地点北、現在の牧田川の中心地の川敷内に砦程度ではあるが、烏江城があったと伝えられている。善正寺文書によれば文明4年(1472)の頃は、吹原久内左衛門重時善正(ふきはらひさうちざえもん しげとき ぜんしょう)が城主であった。善正寺の住職吹原竜二氏の先祖にあたる。
作造橋は烏江と栗笠のどちらが作ったのかは不明である。

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押越では行政上分けられている地区と、祭りなどを行う時の地域の組を使い分けており、地域で分ける組のことを屋敷と呼んでいる。伊勢参りは現在も行っているが、屋敷(=組)によって行う日や時間が多少異なる。12月31日もしくは1月1日に出発して、2日もしくは3日に押越に戻り、公民館で2時間程度の会合を開く。会合の内容としては区内の親睦や年間計画を立てる。代参者を上座に据え、前年代参に行った人が給仕を行う。代参に行く順番はくじで決める。屋敷によっては二万円ほど出して御神楽をしてもらったり、公民館ではなく魚善で会合を行うなど細かい点で違いがある。
昭和はじめ頃までは馬に房を付け、伊勢参りの一行を石畑まで迎えに行ったと聞いた。押越は大神宮を祀っているので、伊勢参りを辞めることはできない。
虫送りは現在は行っていないが、昭和40年ごろまではやっていた。
左義長は行っていないが、粥占いは押越八幡神社で毎年1月中旬に行っている。粥には小豆も入れる。

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押越にはお地蔵さんがたくさん祀られている。
ドラッグストアイシイ養老店(押越670-1)の東、火の見櫓のそば、A氏(押越362)地内、B氏(押越335-1)の家の前など。
ドラッグユタカ(押越1237-4)の近くの墓場に六地蔵がある。六地蔵の小屋は、一度火事があり、鉄筋で作り直した。六地蔵の真ん中には阿弥陀如来と六字名号の石碑があるので、合わせて8体である。六地蔵は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道のお守りである。
8月下旬の地蔵盆には各地域のお地蔵様がそれぞれの地域の住民によりお祀りされる。

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