押越が形成され、さらに高田が形成されていった。押越は高田に比べて、石高の高い土地を多く持っていた。
押越地内には下川原のように、出郷(でご)と呼ばれる区域があった。押越の住民以外による耕作地があったと考えられる。
押越の辺りに河間があった。
押越には「高八(こうはち)」と呼ばれるいわゆる上流層の人がいた。
押越にある庄屋は渋谷家一軒のみであり、20町の土地を所有していた。
押越では自作で生活できた者は一部で、大部分は1石2斗(約三俵半)の小作料を払って田を耕しながら生活していた。ドラッグユタカ養老店(押越1237-4)の南側に押越の共同墓地があるが、この土地は渋谷氏の寄付によって出来たものである。
東京都渋谷区の地名は、養老の渋谷氏が江戸幕府から土地を賜った際につけられた地名だと聞いたことがある。
押越城は渋谷家の敷地の中にある。
押越からは3名が近衛兵になっている。
高田の富裕層は文人を多く輩出しているが、一般町民は働くだけで精一杯の生活を送っていた。他の地から養老に嫁いできた上流階級の奥様から「靴も脱がずに昼寝をするぐらい、どうしてこのあたりの人はこんなに働くのか」と言われた。
昭和30年代は仏前結婚で、自宅で執り行った。
烏江には、庄屋で200年以上も続いた吹原家がある。吹原家は代々勘兵衛(ふきはら かんべえ)を襲名した。吹原勘兵衛は、養老町の烏江湊の舟問屋を勤めた庄屋である。
関ケ原合戦の時、吹原勘兵衛(ふきはら かんべえ)氏が、舟で徳川の退去を手助けした。その恩として家康が関ヶ原合戦の後、舟運の要所であり、最も栄えていた烏江湊を確保するために吹原勘兵衛氏を烏江の庄屋として置き、川の権利を与えたと言われている。
吹原勘兵衛氏は垂井町の南宮大社参道の、北の大鳥居を寄進している。大鳥居は石の鳥居としては県下最大で垂井町の文化財に指定されている。一方、烏江の八幡神社には何も寄進していない。
吹原家は徳川家から杭瀬川の川幅50間程の権利を授かり、船の通行料を得て隆盛していた。烏江に多数の土地を持っていた。
養老町広幡地区の岩道のA氏の家は6代くらい前まで家系図で遡ると、吹原勘兵衛の使用人であったと推測される。姓をもらって烏江から移住したとご祖父からは聞かれている。烏江湊の舟問屋を勤めた吹原家と岩道の吹原家について、詳細は不明である。