瀬田輪中水防組合の事務所が、八幡神社(烏江)の真東の堤防沿いにあった。瀬田輪中水防組合の看板が現存している。
烏江輪中堤防の高さは、烏江西の新除川橋(しんよげがわばし)の北側に昔定杭があり、そこを基準とした。
高田落江からは牧田川へ水を落としていた。
金草川の水は、樋管からサイフォンで杭瀬川に排水していた。金草川のサイフォン跡は牧田川中央に現存している。
昭和12年第1回牧田川改修工事の時に堤防に建てられていた40軒程の家は全て移転した。
現在の烏江北側の堤防から降りる道路あたりに昔樋門があり、藤田廣美氏の祖父の名前から秀助樋管(ひですけひかん)と名付けられていた。江月からの水は秀助樋管からサイフォンを通して烏江駅高架一番ガードあたりの水路を経由して金草川に流し、金草川から笠郷の大野村へと排水していた。秀助樋管は現存しない。
栗笠用水は金草川から水を引いている。
牧田川と杭瀬川の背割堤の上に分流竣工記念碑が建立されている。
伊勢湾台風前の集中豪雨による牧田川の決壊により、分流竣工記念碑が牧田川の川底に沈んだが、建設省により引き揚げられた。
昭和18・19年頃は、金草川の河川改修の夜間アルバイトに行った。
牧田川河川改修による住宅移転では、ほとんどの住民が近隣の所有地に移転した。その為、昔の烏江北と烏江南の瀬古割は解消され現在は10戸ずつで隣保班全10班を構成している。
A氏の一族は、西勝寺の分家であり門徒である。水害により宇田から烏江に移ってきた。
B氏の一族は江月から来た。
烏江住民は宇田の西勝寺、祖父江の楽邦寺など、他所門徒が多い。
烏江の西の水田は江戸末期の新田開発から土地改良前まで陸続きで入れる堀田になっており、2m幅の堀になっていた。稲刈り後、堀田の水路でフナ・ナマズ、カラスガイなどが獲れた。ポンプで堀田の水を抜いて、網等で魚を獲る換取漁法(かえとりぎょほう)も行われた。
しかし、パラチオンという農薬を散布していた為、生き物が減った。パラチオンは昭和46年に使用禁止になった。
昭和17~18年頃まで、烏江の渡し場があった。烏江橋は渡船場のあった辺りに牧田川と杭瀬川の分流後建設された。
A氏の父は大正10年頃まで舟運業を営み貨物船で赤坂通いをしていた。赤坂山より石灰を名古屋に運び、その帰りに名古屋の石炭を桑名経由で赤坂湊、大垣湊へと運んだ。大垣へは水門川を上り、赤坂へは杭瀬川を上った。
昭和15~20年(1940-1945)頃に烏江で小作と地主の農地所有に関する争いがあった。昭和22年の農地解放当時はA氏が烏江の地主だった。
烏江の飛び地は大垣養老高校(祖父江1418-4)あたりに5反程あり、桑畑であった。また江月の名神高速道路あたりの小畑川ダム付近にある烏江の飛地は、燃料となる薪等を確保する林であった。現在は水田となっている。
烏江で伊勢迎えをしていたという記憶はない。
1月第3週の日曜日頃に八幡神社の境内で左義長を行う。粥占いは5年程前までは行われていたが、現在は行っていない。
粥占いと左義長は同じくらいの時期に始められた。
虫送りは昭和20年代は行われていた覚えがある。八幡神社から烏江駅方面に向い、村の周辺を火を灯して歩いた。
八幡神社(烏江)の祭礼は、かつては10月15日に行われていた。2011年現在は10月1日から20日の間のいずれかの土・日に行われる。
八幡神社(烏江)は2度移動している。1度目は昭和10年頃に牧田川堤防の脇から少し西に遷座され、2度目で平成9年に現在地へ遷座された。
烏江の山の神の社は水害によって流され、一時金草川の堤防上に鎮座されていた。その後烏江江西(からすえ えにし)水防倉庫のあたりに遷座されたが、再度遷座されて現在は八幡神社(烏江)に合祀されている。
八幡神社(烏江)の総代は現在2名である。昔は烏江南で2名、烏江北で2名の4名だったが徐々に減らされた。年行司は1年交代で、寺と神社の両方の世話をする。
神社の管理費は各戸1年に5000円ずつ徴収する。
牧田川改修による移転前の石津山善正寺の御堂は、海津市石津の七間堂の御堂を購入したものである。そのあたりでは一番大きな御堂だった。昭和12年第1回牧田川河川改修の後は、烏江分校のあたり、字江東に建っていた。
昭和18年8月か9月に善正寺が火災にあった。善正寺の再建はおそらく村からの寄付で行われたという説と、ある個人が善正寺の本堂を立派に建て直したという説があった。
現在善正寺は6間半4面の大きさの御堂になっている。
善正寺の相焼香は、養老町栗笠の興専寺である。
善正寺の門徒の内約半数は烏江で、その他は笠郷の上ノ郷、羽島市、大垣市の静里などに門徒がいる。善正寺の総代は昭和40年代は3~4名だったが、近年は10名である。善正寺は門徒以外にも老人会などで永代経法要を行っている。
報恩講は門徒主体で勤める。