八幡神社(烏江)の祭礼は、かつては10月15日に行われていた。2011年現在は10月1日から20日の間のいずれかの土・日に行われる。
八幡神社(烏江)は2度移動している。1度目は昭和10年頃に牧田川堤防の脇から少し西に遷座され、2度目で平成9年に現在地へ遷座された。
烏江の山の神の社は水害によって流され、一時金草川の堤防上に鎮座されていた。その後烏江江西(からすえ えにし)水防倉庫のあたりに遷座されたが、再度遷座されて現在は八幡神社(烏江)に合祀されている。
八幡神社(烏江)の総代は現在2名である。昔は烏江南で2名、烏江北で2名の4名だったが徐々に減らされた。年行司は1年交代で、寺と神社の両方の世話をする。
神社の管理費は各戸1年に5000円ずつ徴収する。
牧田川改修による移転前の石津山善正寺の御堂は、海津市石津の七間堂の御堂を購入したものである。そのあたりでは一番大きな御堂だった。昭和12年第1回牧田川河川改修の後は、烏江分校のあたり、字江東に建っていた。
昭和18年8月か9月に善正寺が火災にあった。善正寺の再建はおそらく村からの寄付で行われたという説と、ある個人が善正寺の本堂を立派に建て直したという説があった。
現在善正寺は6間半4面の大きさの御堂になっている。
善正寺の相焼香は、養老町栗笠の興専寺である。
善正寺の門徒の内約半数は烏江で、その他は笠郷の上ノ郷、羽島市、大垣市の静里などに門徒がいる。善正寺の総代は昭和40年代は3~4名だったが、近年は10名である。善正寺は門徒以外にも老人会などで永代経法要を行っている。
報恩講は門徒主体で勤める。
押越が形成され、さらに高田が形成されていった。押越は高田に比べて、石高の高い土地を多く持っていた。
押越地内には下川原のように、出郷(でご)と呼ばれる区域があった。押越の住民以外による耕作地があったと考えられる。
押越の辺りに河間があった。
押越には「高八(こうはち)」と呼ばれるいわゆる上流層の人がいた。
押越にある庄屋は渋谷家一軒のみであり、20町の土地を所有していた。
押越では自作で生活できた者は一部で、大部分は1石2斗(約三俵半)の小作料を払って田を耕しながら生活していた。ドラッグユタカ養老店(押越1237-4)の南側に押越の共同墓地があるが、この土地は渋谷氏の寄付によって出来たものである。
東京都渋谷区の地名は、養老の渋谷氏が江戸幕府から土地を賜った際につけられた地名だと聞いたことがある。
押越城は渋谷家の敷地の中にある。
押越からは3名が近衛兵になっている。
高田の富裕層は文人を多く輩出しているが、一般町民は働くだけで精一杯の生活を送っていた。他の地から養老に嫁いできた上流階級の奥様から「靴も脱がずに昼寝をするぐらい、どうしてこのあたりの人はこんなに働くのか」と言われた。
昭和30年代は仏前結婚で、自宅で執り行った。